【光る君へ】偶然すぎる「まひろ」の出会いに突っ込みたくなるが… 謎多き人物を描く大河の宿命

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大河ドラマの宿命と限界

 大河ドラマはエンターテインメントですから、史実がわからない人の物語を、おもしろく、視聴者の共感を呼ぶように創作しても、問題ありません。まひろを媒介にして刀伊の入寇を描き、道長がまひろを心配する思いを通じて、都の人たちが受けた衝撃を描写する、というのは、なかなかの目のつけどころだと思います。

 実際、大宰府は、夫の藤原宣孝(佐々木蔵之介)が赴任したことがある地なので、まひろが関心をいだいても不自然ではありません。

 ただ、どこか釈然としない気持ちが残るのも否定できません。

『光る君へ』では道長とまひろは、幼いころ偶然遭ってから、たがいにずっと「思い人」です。しかも、まひろと宣孝のあいだに生まれたはずの賢子は、道長との不義の末に生まれた子です。

 こうしたフィクションは、史実がわからない穴を埋めるために創作されたもので、ドラマを成立させるための必要悪のようなものだと思います。紫式部については、わからないことだらけなのですから、時の権力者との恋愛でもからめないと、ドラマは盛り上がりに欠けてしまうのでしょう。

 しかし、視聴者の関心がそこに向きすぎると、道長がどうしてあれほどの栄華を誇ることができたのか、とか、『源氏物語』はどうして生まれ、宮廷社会でどんな役割を果たしたのか、といった歴史の把握の仕方を誤ることにもなりかねず、危険がともないます。

 第46回の「刀伊の入寇」では、ロケによる戦闘場面などに迫力があって、ドラマによいアクセントをあたえていました。ただ、まひろが宮廷を去ったショックで出家した(と思えるように描かれている)道長と、道長との関係に行き詰って出奔したまひろの、それぞれの思いがそこに強く投影されると、これは歴史ドラマなのか、それともなんなのか、時に混乱させられます。

 加えて、『水戸黄門』や三流の韓流ドラマ張りの偶然の連続。もちろん、その偶然は周到に伏線を張りめぐらせた結果で、その点では見事でもあるのですが、見ていてどこか引いてしまうのも事実です。

 ここでなにか結論を出すつもりはありません。どのように乗り越えたらいいのか、よい案があるわけではありません。ただ、歴史ドラマとしての大河ドラマの宿命と限界が、そこにあるのはまちがいないと思っています。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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