【光る君へ】偶然すぎる「まひろ」の出会いに突っ込みたくなるが… 謎多き人物を描く大河の宿命

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まひろが刀伊に遭遇した理由

 時は寛仁3年(1019)3月から4月。海の向こうの異賊が九州沿岸に押し寄せました。それは「刀伊国」の兵で、のちに中国大陸で金や清を建国する遊牧民族「女真」の一派だとみられています。彼らは船団でまず対馬や壱岐に押し寄せてから、4月7日に筑前(福岡県北西部)の沿岸に侵攻。9日には博多を攻めています。その間、殺された日本人の数は365人に達し、1,289人が拉致されたといいます。

 これに対処したのが、太宰権帥(大宰府の長官代理で、事実上の長官)だった藤原隆家(竜星涼)。藤原道長(柄本佑)を呪詛しまくった挙句、若くして病死したあの伊周(三浦翔平)の弟です。当時の九州には、貴族の末裔ながら土着し、戦闘にも慣れた人たちが大勢いて、隆家はそういう人をまとめて戦うことができたのです。

 隆家が大宰府にいたおかげで、刀伊の入寇は撃退されましたが、もし上陸を許せば、もっと広い地域で日本はダメージを受けたかもしれません。いってみれば、刀伊の入寇とは平安時代最大の対外危機でした。

 大河ドラマといえば、昔から戦闘シーンが定番ですが、『光る君へ』は平安時代の宮廷が舞台だから、戦闘にあまり縁がありません。そんななか、『刀伊の入寇』は戦闘を描く絶好のチャンスです。かといって、紫式部と藤原道長が主人公のドラマで、都から離れた大宰府で起きた事件を生々しく描いても唐突です。だから脚本家は、その場にまひろを向かわせたのでしょう。

 博多で激しい戦闘を繰り広げた刀伊軍は、強風に押されていったん退きますが、4月12日の夕刻にふたたび侵攻。撃退されると、13日には肥前(佐賀県、および壱岐と対馬を除く長崎県)の松浦を襲います。結局、退けられるのですが、ちょうどまひろはこのとき、周明の先導で松浦に向かっていました。友人のさわ(野村麻純)が亡くなった松浦を見てみたい、というのが動機でしたが、まひろたちが沿岸を歩いていると、突如、刀伊の集団に襲われ、周明はその矢に射られてしまいます。

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