89歳「倉本聰」の新作「海の沈黙」は構想60年 着想の原点は東大教授の“脳髄にひびく”言葉だった
倉本氏の怒り
本作の主人公・津山竜次(本木)が“スイケン”こと碓井健司(中井貴一)に向かって言う。
「夢を見た。俺が描いたゴッホの贋作、その前にゴッホがいて、その絵を見てるんだ。ゴッホは振り返って俺に向かって急に言ったのさ。『いい絵だろ、俺が描いたんだ』。『いい絵ですね』って俺がホメたら、ゴッホも嬉しそうにまたその絵に見入ってた。おかしいだろ」
何と寓意に満ちたセリフだろう。絵描きが描いた作品がある。名のある評論家が認め、権威者たちが太鼓判を捺すことで、それに何億という値がつく。後日、その作品が贋作だったと判明すれば、一転、今度は誰もその絵には見向きもしない。美の基準とはそんなものなのか。ならば美とは何なのか。
その問いに、倉本は竜次を通じて答えている。「美しいものは只(ただ)記憶として心の底に刻まれていればいい。その価値を金銭(かね)で計ったり、力ある人間が保証したりするということは、愚かなこととしか思えない。美は美であってそれ以上でも以下でもない」と。まさに美には利害関係があってはならないのだ。
美術界においては権威を持つ者が価値を決め、それをお上(かみ)が認定して箔をつける。美の価値が、ある特定の人々によって決定され、その作られた価値に踊らされる者も後を絶たない。「永仁の壺事件」の時代から現在に至るまで変わらない構造だ。しかも、それは美術界に限ったことではない。すべての創造行為の背後に潜む宿痾だと言っていい。
倉本がこの映画に込めたのは、人が作ったものの価値を人が決めるという矛盾に対する静かな、しかし強い怒りだ。美(創造)には利害関係があってはならない。美は美であってそれ以上でも以下でもない。そのことを集大成となる作品で言い切ったのが、まもなく卒寿を迎える現役脚本家であることに、あらためて大きな拍手を送りたい。