能登大地震で「大切なものが失われてしまう…」 ある輪島塗職人の“復興”と“奮闘”

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「小さな木地屋さん再生プロジェクト」

 元旦の地震後、赤木さんの動きは早かった。

 赤木さんの自宅と工房は損傷を免れたものの、何人もの弟子の家が半壊全壊状態だった。工房を金沢に移し、その間に、壊れの小さい弟子の家を修復してシェアハウスとし、水道と電気が通るようになった4月に、弟子たちと輪島の工房へ帰ってきた。それと同時並行して、編集室「拙考」(*1)を修繕し、損傷したオーベルジュ「茶寮 杣径(そまみち)」(*2)の仮店舗「海辺の食堂 杣径」をオープン。と同時に、「小さな木地屋さん再生プロジェクト」を開始している。

 一度に あちこちのことが絡み合うように突き進んでいったのだ。

 この「小さな木地屋さん再生プロジェクト」は輪島塗が直面している根幹の問題に挑むプロジェクトでもある。輪島塗は何人もの職人の共同作業で成り立っているが、塗りの土台となる木地屋の仕事は賃金が低く、若い後継者が育っていない。そんな危機に直面していた中での今回の地震で、打撃を受けた高齢の木地師たちは、ひっそりと廃業へと向かっているかもしれない。

 赤木さんは「このままでは、この土地に受け継がれてきた大切なものが失われてしまう」と、被害を受けた木地師の仕事場を再生したのである。それだけではなく、赤木工房から弟子2人を出向させ、挽物技術を引き継がせている。自分の仕事場に戻ることができた木地師の池下満雄さんは喜び、やる気に満ちた新しい弟子たちと2ヶ月を過ごし、そして7月1日に亡くなった。この2ヶ月が、どれだけ木地師の最期を豊かに彩ったことだろうか。

 今池下さんの仕事場では新しい親方が弟子たちを指導している。

「世の中はそういうふうにできている」

 どうだろうか。ざっくりここに書き連ねただけでこの膨大な仕事量とスピード感である。一体どうやってこなしていったのだろうか。

 赤木さんは言う。

「僕は、誰にも相談せず1人で勝手にやっていたんです。当時、魂が抜けたようになっていて、苦しい、つらい、悲しいとか、嬉しいとか、そういった感情が一切なくなっていました。僕のためでもなく、誰かのためでもなく、ただ目の前にやらなきゃいけない事がどんどん見えてきて、やれる事をドンドコやっていただけです。不思議なことに、動き始めると、ちゃんと手伝ってくれる人が次から次へと現れました。頼んでもいないし、呼びかけてもいない。でも、岡山からは工務店と建築家のグループ、福井からは大工さん、秋田からは建築資材がやってきて、金沢では仮工房の場所の提供がありました」

 今回のことで、赤木さんは思ったそうである。

「世の中はそういうふうにできている」

 人にとって本当に必要なものは、あらかじめ用意されていて、それを信じることだ、と。

 今、5人の若者が「弟子入りさせてください」と赤木工房の門を叩いている。希望があれば全員受け入れたい、と赤木さんは嬉しそうだ。移住を考えている若者の住処だって心配ない。能登にはもともとたくさんの空き家があるのだ。半壊程度なら、手を入れればすぐに住めるようになる。

 その実例が、半壊状態から立ち直った「海辺の食堂 杣径」である。ここを訪れて、「あ、ここでもやっていける」と自信を持とう。

 赤木さんはすでに、空き家を購入するための交渉を始めている。

*1)「拙考
赤木さんの輪島塗の会社の出版部門。赤木さんと中国・上海出身の編集者・張逸雯(チョウイーウェン)さんが立ち上げ、今年3月に『工藝とは何か』を出版。震災後にはこの編集室の建物を修繕し、現在オーベルジュの仮店舗「海辺の食堂 杣径」を営業中。
輪島市門前町鹿磯1-17

*2)「茶寮 杣径(そまみち)
昨年9月に開業した日本料理オーベルジュ。地震による損壊とその修復中につき、現在休業中。仮店舗を「拙考」に移し、「海辺の食堂 杣径」として開業している。

土居彩子(どい・さいこ)
1971年富山県生まれ。多摩美術大学芸術学科卒業。棟方志功記念館「愛染苑」管理人、南砺市立福光美術館学芸員を経て、現在フリーのアートディレクター。

デイリー新潮編集部

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