能登大地震で「大切なものが失われてしまう…」 ある輪島塗職人の“復興”と“奮闘”

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「赤木さんが素敵だからです!」

 今年の大地震で、何人もの輪島塗の職人たちが輪島を去った。輪島を去っても仕事を続けていたり、しかしやめてしまった人もいる。これから輪島塗はどうなってしまうのだろうか。それを知りたくて、塗師の赤木明登さん(62)の工房を訪ねた。赤木さんの工房は、能登半島が東にぐっとくの字に曲がるところの山の中に位置する、輪島市の三井町内屋にある。

 元日の地震直後、赤木さんは弟子たちを連れてすぐに工房を金沢市に移し、電気と水道が通い始めた4月に輪島に戻ってきた。9月には追い打ちをかけるような豪雨の被害。沈んだ空気が漂っているのではないかと覚悟して訪れた工房では、4人の若い女性と、赤木さんと同年代の男性、という5人のお弟子さんたちがコツコツと仕事をしていた。

「どうしてこの工房に弟子入りしようと思ったのですか?」

 そう聞いてみた。すると一人の弟子が恥ずかしそうに、しかししっかりと、

「赤木さんが素敵だからです!」

 と答えた。工房の中が笑いでワッと沸いた。

 辺りに一気に花が咲いたようだった。

 そして私が輪島塗についてあれこれ赤木さんに尋ねると、弟子の誰かがその話題に上がっている素材を棚からサッと出して見せてくれる。工房がいかに上手く一体感を持って回っているのかを、こういうことが言葉以上に語ってくれる。

岡山で生まれ、東京で編集職ののち、家族で輪島へ

 さて、弟子に「素敵な人」と言われた赤木明登さんとはどんな人なのか。

 赤木さんは輪島塗界隈では特異な存在であろう、と想像する。岡山県に生まれ、東京で4年間、婦人雑誌の編集者を経た後、吸い寄せられるように家族で輪島に移り住んだ。角偉三郎というこれまた輪島塗の世界では異彩を放っていた漆藝家との出会いが、当時東京でもやもやと暮らしていた赤木さんの心を震わせたのだ。輪島塗下地職の親方への4年間の弟子奉公と、その後の1年間のお礼奉公を経て、1994年に職人として独り立ちをした。弟子入りを始めた頃は何もかもが飛ぶように売れて沸いたバブル絶頂期。しかしやがてバブルは崩壊し、年季が明ける頃には、嵐が過ぎ去った後のように静かになっていた。

 それでも赤木さんには不安はなかったという。

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