爆弾小僧「ダイナマイト・キッド」の素顔…引退した初代タイガーマスクとの知られざる「最後の一戦」

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引退したタイガーともう一度…

 実は初代タイガーマスクが新日本プロレスを引退した3ヵ月後に、キッドと戦っていたと知ったら、読者は驚くだろうか。

「彼が新日本を辞めた時には、わざわざカルガリーにまで訪ねて来てくれた」

 WWFを辞める末期のキッドの言葉だ(「週刊プレイボーイ」1988年8月23日号)。“彼”とはもちろん、初代タイガーマスクのことである。

 タイガーは人間関係のしがらみ等から、1983年8月10日に突如、引退。3ヵ月後の11月16日、アメリカ大陸に飛んだ。師匠の1人であるカール・ゴッチと会うことも目的の1つだったが、もう1つが当時、同地をサーキットしていたキッドと会うことだった。実は引退の3日後、キッドとカナダでタイトルマッチをおこなうことが決定していたが、タイガーの引退により、試合は実現しなかった。

 試合を楽しみにしていたキッドは「タイガー以外とはやりたくない!」と代替カードもおこなわず、帰国してしまっていたのだ。タイガーはそれを人づてに聞き、捨てたはずのタイガーのマスクを再び被り、渡米したのだった。プロレス界と断絶そのものの時期だったタイガーの行動だけに、ある老舗専門誌は取材が追い付かなかったのか、渡米の事実は報じても、〈キッドとは会わず〉と報じたほどだった。

 いざ再会すると、キッドは大喜び。次の試合地であるポートランドでのエキシビジョンマッチを提案すると、タイガーも了承。ところがこちらの大会は、全試合テレビマッチという契約になっており、タイガーが出る場合の権利関係がクリア出来ず、話は没になってしまう。だが、キッドは諦めなかった。

〈「サミー(佐山サトル=初代タイガーマスク)とはどうしてもやりたいんだ」〉(「GORO」1984年1月12日号)

 観客はいなくていい、ギャラなどもちろん無用というキッドは、自らのジムでのスパーリングを提案。タイガーも快諾し、虎の仮面をつけ、ジムのリングに上がった。

 体のキレを確かめるように何度も回し蹴りのモーションを見せるタイガーに対し、キッドもエルボーで応戦。首を中心に攻めるとタイガーは関節を取って反撃……。2人の対決で最も長い30分強を過ぎたスパーリングは、最後はお互い笑みを浮かべ、肩をポンポンと叩き合って終了した。互いのコメントは、以下である。

〈(タイガーは)まったく変わってないね。これからも俺の最大のライバルだろう〉(キッド。前出「GORO」)

〈(キッドは)かなりウエイトアップしてましたよ。彼とは今後、戦う時が来るでしょう〉(タイガー。「月刊ゴング」1984年2月号)

 その後、一騎打ちの機会が訪れることはなかった。しかし、お互い飛ぶ鳥を落とす勢いだった時期におこなわれた2人きりのスパーリングこそ、両者にとって至福の時間だったと信じたい。

 ジムで、2人は別れた。空港にタイガーを送る車は、キッドの奥さんが運転して行くことになった。車に同乗せずジムに残るキッドは、タイガーにこう告げたという。

「俺はこれから、練習するから」

 それは、最大のライバルに対する、最高の敬意ではなかったか。

瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。早稲田大学政治経済学部卒。フジテレビ「カルトQ~プロレス大会」の優勝を遠因に取材&執筆活動へ。近著に『プロレス発掘秘史』(宝島社)、『プロレスラー夜明け前』(スタンダーズ)、『アントニオ猪木』(新潮新書)など。

デイリー新潮編集部

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