選手としての数字はなくても「水原 茂」が忘れられない存在である理由(小林信也)

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後楽園球場でのあいさつ

 水原にさらなる苦難が降り注ぐ。リンゴ事件で早慶野球部双方が謹慎処分を受ける中、麻雀賭博で検挙されたのだ。水原は野球部を除名され、大学から50日間の停学処分を受けた。

 それでも水原の輝きは色あせなかった。36年に巨人に入団、主に三塁手で活躍。38年秋季リーグでは投手として8勝2敗、巨人優勝に貢献した。

 だが、選手としては特別な数字を残していない。36年から出征する42年までの7年間で、打率.243、12本塁打。だがその存在感は群を抜いていたのだろう。戦後生まれの私でも、シベリア抑留生活から帰還した水原の有名なせりふは繰り返し聞かされた記憶がある。

 49年7月24日、出征から8年を経て帰国。後楽園球場の本塁上に立ち、満員の観衆にあいさつした。髪は丸刈り、白いスーツに蝶ネクタイ。まぶしいほどの姿で水原は声を上げた。

「みなさま、水原はただいま元気で還ってまいりました。シベリアの4年の生活は、私にとっては苦難の道でありましたが、いま日本野球の想像もおよばない発展ぶりを見て、非常に喜びもし、驚いている次第であります」

 外野席までぎっしりと埋まった後楽園球場が大歓声と万雷の拍手に揺れた。終戦から4年の時を経て見る復興した日本の光景は水原には夢のように映っただろう。まさに浦島太郎の心境だったかもしれない。

巨人、東映、中日で采配

 1年だけプレーした後、巨人の監督に就任した。水原の野球人生は監督としての実績を抜きには語れない。50年から60年まで巨人監督として3連覇、5連覇を含む8度のリーグ優勝。4度の日本一。その後、東映、中日で監督を務め、21年間で通算1586勝を記録した。

 三原率いる西鉄との激闘も語り草だ。三原とはとりわけ因縁が深かった。巨人の監督を辞任したのは、三原が大洋の監督就任1年目に最下位からの優勝を遂げた直後だ。最後まで激しく競り合いながら巨人のV逸が決まった試合後、しつこく水原の表情を撮ろうとするカメラマンがいた。水原は腹を立て、カメラマンを殴りつけた。近くにいた選手がフィルムを奪い取った。その事件が辞任の引き金になったといわれる。しかし、それで終わらないのが水原だ。東映の監督になり、球団創設以来15年中14回はずっと5位以下の東映を2年目で日本一に導いた。コーチャースボックスから両手でブロックサインを送るクールな水原の姿は野球ファンを魅了した。

小林信也(こばやしのぶや)
スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部などを経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

週刊新潮 2024年11月28日号掲載

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