「お二人でコロコロと笑われて…」 百合子妃と彬子さまの深い絆を物語るエピソード 一方で最期まで心を痛められていた「お身内のあつれき」

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ただならぬ雰囲気

【前後編の前編/後編を読む】「皇族費は現状の倍額の3050万円に」 信子さまが新たな家を創設なさる可能性も 「彬子さまとのあつれきが表面化するのは必至」

 明治以降の皇室で最高齢だった三笠宮家のご当主・百合子妃が11月15日、101歳で薨去された。お子様の親王殿下方はすでに亡く、8年前には夫の三笠宮さまも100歳で先立たれている。が、お身内では長らく確執が続き、今後のご当主選びもままならないという。

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 1世紀を生き抜かれた百合子妃が、老衰のため聖路加国際病院で息を引き取られたのは11月15日の早朝だった。

「百合子さまは3月3日に病院で診察を受けられ、脳梗塞と誤嚥性肺炎の症状が見られたため入院されました。ほどなく症状は回復し、集中治療室から一般病室へと移られたのですが、数日後には左心不全の症状とともに、再び脳梗塞が認められます。その後はもっぱら、車椅子を使ったリハビリに取り組まれてきたのですが……」(宮内庁担当記者)

 11月7日の検査では、心臓や腎臓など全身の機能低下が判明。訪英中だった孫の彬子(あきこ)さま(42)は緊急帰国され、また百合子妃の三男、故・高円宮さまの久子妃も米国訪問を取りやめるなど、ただならぬ雰囲気が漂い始めたのだった。

「薨去された15日には両陛下や上皇ご夫妻をはじめ、皇族方が相次いで三笠宮邸を弔問。16日には納棺にあたる『御舟入(おふないり)』、そして最後のお別れとなる『拝訣』が執り行われました。一般の葬儀にあたる『斂葬(れんそう)の儀』は、26日に東京・豊島岡墓地で営まれました」(同)

防空壕に住まわれたことも

 1923年6月、高木正得(まさなり)子爵の次女として東京にお生まれになった百合子さまは、女子学習院本科卒業後の41年10月、三笠宮さまとご成婚。戦時中は空襲で宮邸が全焼し、当時1歳だった長女の近衛やす子さんを連れて防空壕に住まわれたこともあった。戦後は48年から母子愛育会の総裁に就かれ、60年以上にわたって務められてきた。

 ご家庭では3男2女に恵まれながら、2002年には三男の高円宮さまが急逝、また12年には「ヒゲの殿下」として知られた長男の寛仁(ともひと)さま、そして14年には、未婚のまま独立された次男の桂宮さまを亡くされている。

「16年10月には三笠宮さまも薨去され、百合子さまはご一家の当主となられました。一方で百寿を迎えられた23年6月には、宮内庁を通して所感を公表。そこには『孫や曾孫の成長をとても楽しみとしております』とつづられていたのです」(前出の記者)

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