どうして絵を見るのに考えなきゃいけないの? “考える美術”ばかりになった理由を横尾忠則が語る
絵は頭で描くのではなく、肉体で描くのです。といって頭に絵具を塗りたくって、キャンバスに体当りして描くボディペインティングではありません。頭で描く、つまり頭で考えた観念や言葉で組み立てた知性を発想の源泉にして描くのではなく、いわゆる肉体感覚、五感のことですが、頭脳の考えよりも五感が知覚する感覚を優先して描くことを僕は肉体で描くというのです。
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子供はいちいち頭で考えて描くというよりは肉体が感じる感覚で描きます。ところが、学校の絵画教育によって、感じることから考えることを重視する方向に次第に変っていきます。そして、何を描くかという意味や目的の方に関心を向けさせられる教育によって、段々理屈っぽくなっていくのです。
そうすると何を描くかが問題になります。つまり絵の主題が必要になります。どんな描き方をするか、如何に描くかという様式よりも何を描くかという主題が重要になってくるのです。
その典型が現代美術です。現代美術は難かしくてわからないとよくいわれますが、鑑賞する人が、すでに見る前からかまえて、作品の前で沈思黙考してしまうのです。どうして絵を見るのに考えなきゃいけないんでしょうか。
マルセル・デュシャンという観念芸術(コンセプチュアルアート)の親玉みたいな人が展覧会場で男性用の便器を床に寝かして置きました。観客はその便器の周囲に輪になって、腕組みして考えました。ここから美術が観念的になってきたのです。しかし、作者のデュシャンはこの便器に「泉」という題名を与えただけで、一言もこの作品らしいものについて語ろうとしませんでした。語り始めたのは美術評論家です。
この便器が出現して以来、芸術のあり方が変ってしまったのです。従来の美術はただ自由に見ればよかったのにこの作品(?)が現われて以来、鑑賞者、デュシャンの影響を受けた美術家達はこぞって考える作品を作るようになりました。その影響が今日の現代美術を作ったのです。
考えない美術は美術ではなく、考える美術こそが今日の美術となって、作家もなぜこの作品を作ったかについて実に饒舌に、しかも難解に語ります。鑑賞者もこの難解な作者の言葉が理解できない場合は、鑑賞者失格です。つまり、肉体感覚によって描かれた(作られた)作品よりも、観念によって作られた作品こそが今日の現代美術なのです。
僕も一応現代美術の末席にいる美術家のひとりですが、先ほど書いたように僕は頭で描くのではなく、むしろ肉体感覚の刺激によって描くタイプの美術家です。それでも鑑賞者は僕の作品の前に立つとなんとか頭で理解しようと頑張ります。
そしてもし、その場に僕がいれば、多分、これは何んですか、何を表わそうとしたのですかと質問されると思います。その時、「何も表わそうなんて思っていません。気がついたらこんな絵になってしまっていたのです」と答えます。すると、この人は突然困るでしょうね。
さらに僕はその人に、「どうして絵の意味など考えるのですか、絵に意味なんかありません」。この人は常に考えることに集中していた人だと思います。つまり観念芸術こそ現代美術だと思い込んでいたのです。そこで僕の描くような考えてない絵にぶつかると大変混乱されることでしょう。
この人は、考える絵もあるけれど僕の絵みたいに考えない絵もある。これでいいじゃないかとは思えない人なのです。とにかく分別をつけたい人です。僕のような無分別な絵にぶつかるとハタと困るのです。つまり肉体感覚で接するのではなく頭という観念でものごとの良し悪しを判断する人になってしまっているのです。
来年の4月に僕は世田谷美術館で個展を開きます。僕の絵の中にはありとあらゆる図像が描かれています。考えることの好きな人にはもってこいの作品です。考え始めると、いつまでも作品の前から立ち去ることができないかも知れません。
世はコンセプチュアルアート時代です。考えて考えて考え抜いた絵ばかりがどこの美術館にも画廊にも並んでいます。一方で、考えない、考えない、これ以上考えないそんな絵が僕の絵です。
僕は自作の説明はいっさいしないのではなく、できないのです。僕は文学のように考えるために絵を描いているのではなく、如何に考えないで頭を空っぽにして生きていくか、ということのために描いているのです。でも絵を描きながらここは赤にするか青にするか、それとも黄がいいかというような、その程度の幼稚なことを考えます。何色だっていいのですが、ここはお遊びのために迷ってみせているのです。