「私のやり方が悪かったと事件を矮小化しないでほしい」 “サムライ大使”と呼ばれながら激しいバッシングを受けた「青木盛久氏」が明かした本心
青木盛久さんは、あの事件に遭わなければ、おそらくその名を広く知られることはなかった外交官だろう。1996年12月、青木さんが大使を務めていたペルーで、日本大使公邸を左翼ゲリラの「トゥパク・アマル革命運動」(MRTA)が占拠。ペルーの政府要人や日本企業の駐在員らとともに、127日間にわたり人質として拘束された事件だ。
「サムライ大使」と呼ばれて
38年、現在の栃木県那須塩原市生まれ。両親ともに高名な外交官に連なる。栄光学園高校から東京大学法学部に進み、63年、外務省に入省。フィリピン公使、国際協力事業団(現・国際協力機構)青年海外協力隊の事務局長を歴任し、94年、ペルー大使に着任した。
大使は天皇陛下の誕生日を祝うレセプションに細心の注意を払うにもかかわらず、その最中に武装ゲリラが乱入した。この祝賀レセプションは華美なパーティーのように報じられたが、任国で日本の姿を伝える、年に1度の重要な外交行事だ。
700人余りが人質に取られたが次第に解放され、青木大使ら72人の拘束が続いた。青木大使は「私の客に手を出すな」とゲリラを制止、「サムライ大使」と報じられ、英雄視されていく。
フジモリ大統領の指揮のもと、ペルー軍の特殊部隊が突入。ゲリラ14名全員を殺害し人質を解放した。
激しいバッシング
解放後の会見に青木大使はタバコを吸いながら応じ、横柄だとひんしゅくを買う。
妻の直子さんは回想する。
「そばにいた人が止めようとしたのに吸ってしまった。へこたれていないことを示したかったというのですが、配慮に欠けていました」
人質の中からも言動を批判する声が上がり、一転して激しいバッシングに発展。解放からまもなく、青木さんは本誌(「週刊新潮」)に長文の手記を寄せた。〈武力突入があった場合は、私はもちろん殺されるだろうし、人質の半分ぐらいはダメかなと思っていました。ただ、そういうことを余り考えると、私も神経が持たなかったんですよ。(中略)民間人の釈放を要求したり、ペルー政府との交渉の進展具合やゲリラが考えている条件を探ったりということを、もう一切やめてしまいました〉と拘束中に変化した心情を吐露し、青木のやり方が悪かったと事件を矮小(わいしょう)化しないでほしい、と訴えた。武力突入でペルー人人質1名、兵士2名が犠牲になった。
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