養老孟司さん「大人に関わりたくないと思っていた」少年時代 実家には過激運動家も出入り
闇バイトやトクリュウといった言葉が飛び交い、治安の悪化を感じる方は多いだろう。しかしながら、統計的に見れば昔のほうが治安は悪かったという指摘もよくなされるところ。そもそもヤクザが大手を振るって街を歩いていたし、大学ではしょっちゅう警察沙汰が起きていたのだ。
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『バカの壁』で知られる養老孟司さんは1937年(昭和12年)生まれ。小学生の時に敗戦を経験し、中学校に通う頃には日本は復興の道を順調に歩みつつあった。が、そんな養老さんの家には今にして思えばかなり危ない人たちが出入りしていたのだという。
現在の観点からすれば当然アウトという話ではあるのだが、まだ戦争から間もない日本はのどかだったということだろうか。
自身の歩みを振り返りつつ人生を論じた新著『人生の壁』には、当時の体験がユーモラスにつづられている(以下、同書から抜粋・再構成しました)
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警察の看板を盗んで
私は子どもの頃から、子どもは大人のことに関わる必要はないんじゃないか、と感じていました。家庭環境の影響もあったのかもしれません。
姉が11歳、兄が8歳年上で、私が中学生の頃、すでに姉には配偶者もいました。兄も姉も友達付き合いが多い人だったから、しょっちゅう家に、かなり年齢が上の人がいたのです。
大人といっても若者の部類なのですが、彼らの話によく耳を傾けていたものです。
当時の若い人たちは、今から見ればかなりバイアスがかかった考え方や物言いをしていたように思います。兄姉やその周辺の人はいわゆるマルキストでした。左翼、最近ならリベラルとされる人に近い立場です。
だからといって、特別普通と異なることはありませんでした。私にはあまりよくわかっていなかった、というのが正確なところかもしれません。それでも彼らが出入りしている頃には私は中学生になっていたので、何となくその主張は理解できました。
父は亡くなっていたので、家にいたほんとうの大人は母くらいです。彼らは母に対しても説教めいたことを言っていました。あんたの考え方は古い、というのです。
母はそういう場であまり理屈を言う人ではないので反論するわけでもなく、ただ若者の話を聞いていました。
当時の私の関心事はといえば、基本的に裏山に行って虫を採るとか、川で魚を取るとか、そんな程度でした。鎌倉の海にいるタコをモリで突いて家に持ち帰って食べるといったことが日常生活の中で一番の楽しみだったのです。
幸いなことに、兄や姉からオルグ(勧誘)されるようなことはありませんでした。
今から思えば、まだ呑気(のんき)な時代だったのでしょう。兄の友人が酔っ払って「神奈川県警察鎌倉警察署」という木製の看板を持ってきたこともありました。そんなものをどうすればいいのか。返しに行くとかえってややこしい。
仕方がないので、中学生の私が看板を割って焚(た)き付けにしました。まきなどに火をつけるために使ったのです。一種の証拠隠滅です。
いま警察の看板を盗むなんてことをしたらテロだと言われかねないでしょう。しかもそういうことが3回もあったのです。3回目はさすがに警察も気づいたようで、盗んだ人を追ってきました。
ところが逃げ込んだ先がウチだったのを見て、「ああ、医者の家か」なんて言って引き返してしまった。別に医者の家だからといって法的に許されるはずもないのですが、そういうのどかな時代だったのです。
朝になると、目が覚めた私が「また看板だよ」と思いながら、仕方なく割る。
爆弾作成小冊子
同じ時期にこんなこともありました。ある日家に帰ってくると、見知らぬ人が2階にいて、ガリ版で何かを刷って作っている。見せてくれたのは「球根栽培法」という冊子でした。
ピンと来るのは、年配の方だけでしょうか。植物の栽培法を書いたものではありません。当時、武装闘争の方針を取っていた日本共産党の「秘密マニュアル」のようなものです。爆弾の作り方などの物騒な内容が書かれたもので、当時の左翼の暴力革命の指導書です。「球根~」というタイトルは隠れミノです。
その頃の日本共産党の活動はかなり過激なものでした。武力闘争、暴力革命を本気で考える人たちもおり、山村工作隊などという部隊までありました。農村部に拠点を置くテロ組織のようなものです。この工作隊に、若き新聞記者として潜入取材を敢行したのが、読売新聞のナベツネこと渡邉恒雄さんです。
ある時、冊子を作っている人が、身の上を話してくれました。自分は広島の出身だけれども、戸籍を持たない無戸籍の存在だ、すぐに足がつくから絶えず居場所を変えながら冊子を作っている等々。実際に、鎌倉の我が家にいたのも1週間ほどだったでしょうか。
こんなふうに人の出入りもあり、幼い頃からわりと上の世代と接していたのですが、早くあちらの世界に仲間入りしたいなどとはまったく思いませんでした。逆に、あまり大人たちに関わりたくないなとどこかで感じていたものです。
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養老少年が「オルグ」されずに虫取りに夢中になっていたことは、後世の人にとっては幸運なことだったのだろう。同書の中で養老さんは、子どもに対して早く大人になるよう圧力をかけるような最近の風潮に警鐘を鳴らしている。