藤田小女姫事件の公判で「真犯人はほかにいる」…獄中死「福迫雷太受刑者」が明かした「私は組織の一員で、濡れ衣を着せられた」の真相
「仮拘束」直前の“肉声”
10月14日にハワイにあるハラワ刑務所で命を奪われた、59歳の日本人受刑者――。同房の男によって鋭利な刃物で首を刺され、床に倒れ込んでいたところを発見されたという。死亡した受刑者の名前は、福迫雷太。その名前を聞いてハッとした向きも少なくなかったはずだ。1994年に占い師の藤田小女姫(こととめ)さんと、その息子・吾郎さんがハワイで殺害された事件をめぐり、翌95年に終身刑が確定した人物である。
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多くの謎に包まれた“母子殺害事件”の容疑者だった福迫受刑者のあまりにも突然な“獄中死”。衝撃的な一報から1ヵ月以上が経過したいまも、多くのテレビ番組が“平成の重大事件”として特集を組むなど余波は収まるところを知らない。そこで過去の「週刊新潮」の報道をもとに、事件に残された“謎”について振り返ってみたい。
30年前に起きた凄惨な事件で命を落とした藤田小女姫さんは、かつて“天才霊感少女”として耳目を集め、その言動がメディアで大きく取り上げられる存在だった。政財界の大物が彼女の霊感を頼り、実際に総理大臣経験者や政界のフィクサー、日本を代表する企業経営者を顧客にした。だが、1970年代にハワイへと移住した小女姫さん母子を“悪夢”が襲う。
小女姫さん母子が射殺されたのは94年2月23日のこと。小女姫さんは自宅のクローゼットの中で、同じく吾郎さんは愛車の中で見つかった。事件発覚から約2週間後、日本に帰国していた福迫受刑者は神奈川県警に出頭した。福迫受刑者は4月4日に東京高検に仮拘束されるが、「週刊新潮」はその前日に2時間のインタビューを行っていたのである。
防犯カメラに映った福迫受刑者の姿
彼の“肉声”を紹介する前に、そもそも、なぜ福迫受刑者は小女姫さん母子殺害の容疑をかけられたのか、について解説が必要だろう。事件当時の「週刊新潮」は次のように報じている。
〈福追は地元の公立中学を卒業後、アンカレッジの高校に留学。ロサンゼルスの大学に進学したが、卒業しないまま、幾つかのビジネスを手掛けた。フリーターのような生活を経て、ロスで知り合った女性と一緒にハワイに移り住んだのが昨年7月。小女姫さんの自宅から徒歩15分ほどのコンドミニアム「ディスカバリーベイ」に住んでいた〉(「週刊新潮」1994年4月14日号「藤田小女姫殺害犯とされた本人と『会見二時間』の真贋」)
〈容疑者と目されたのは、ホノルル警察が部屋を捜索したところ、床に血痕が残っていて、血液型が吾郎さんのものと一致した上、絨毯が1メートル四方にわたって切り取られていたこと。家賃を滞納するなど金に困っていて、吾郎さんやダイバーズショップの店長に借金をしていたこと。事件当日のアリバイがなく、しかも「ディスカバリーベイ」の監視カメラに吾郎さんの車を運転する福迫の姿が映っていたこと。(事件から)2日後の2月25日に質屋に宝石を持ち込み、換金後に航空券を購入、そのまま急いで(日本へと)帰国していること。カリフォルニア州で飲酒運転と銃の不法所持で逮捕歴があること等々、疑わしい状況が次々と報じられたからである〉(同)
こうした情報に加えて〈(警察が)コンドミニアムの防犯カメラを念入りに調べたところ、そのうち地下駐車場に設置してあった1台に長椅子を運び込む福迫の姿が映っていた。そこで地下倉庫を調べると、その長椅子が見つかり、そこには血痕があったばかりか、小女姫さん殺害に使われたのと同じ弾丸がめり込んでいた〉。これが“逮捕”の決め手となったようだ。
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