斎藤元彦知事は「本当は良い人」か? アンチと強烈な支持者を生む人の意外な共通点
両極端の評価
斎藤元彦兵庫県知事の選挙中の姿を見て、「テレビなどで伝えられているような悪い人ではないのではないか」と感じた人は少なからずいたようだ。少なくとも「反・斎藤」で記者会見を開いた際、語気を荒らげて机をバンバンたたいていた地元の市長よりも好漢に見えたのは間違いない。選挙期間中に斎藤氏を評価する人が増えたことは、結果が物語っている。
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とはいえ、いまだに斎藤氏への評価は大きく分かれたままだ。その再選を受けて、民主主義の敗北とばかりに嘆く人もいれば、投票した人を愚か者のように非難する人もいる。
特定の人物への評価が、崇拝に近い熱烈な支持と人格否定に近い強い拒否感との両極端に分かれる、そんな現象が可視化されるようになったのは、SNSの影響が大きいとはよく指摘されるところだろう。日本国内でいえば安倍晋三氏が総理大臣に再選した頃から、両極端の人の対立がネット上で日常的に見られるようになった。支持者にとって安倍氏は救世主、控えめに言っても極めて優秀な政治家だったが、アンチにとっては無能な亡国の徒にしか見えなかったようである。
こうした賛否両論を巻き起こす人物について、本人や関係者への取材を積み重ねることでその実像に迫ろうとしたのが、ノンフィクションライター・石戸諭氏の新著『「嫌われ者」の正体 日本のトリックスター』だ。
何かを語りたくなる「嫌われ者」たち
石戸氏がここで取り上げている人物は、玉川徹氏、ガーシー(東谷義和)氏、山本太郎氏、吉村洋文氏……。「嫌われ者」としているのは、毀誉褒貶が付きまとうことを表現しているからであって、決して「嫌われて当然」という意味ではない。石戸氏はこう述べている。
「彼らについて総じて言えるのは一部の熱狂的な支持者・擁護者と、何があっても批判をする熱量の高いアンチとの対立を生み出すことだ(略)。
加えて、熱量を込めて語りたくなる存在であるということも挙げられる。市井(しせい)に生きる少なくない人々が彼らの存在について何かを語りたくなる。直接の利害関係はほとんどないのに、話題に上ることを欲し、何かを書き込みたくなってしまうくらい惹きつけられているのだ」
この記述はそのまま斎藤知事にもあてはまるだろう。今回の県知事選では、投票権を持たない他の地域の人が興味を持ち、ネット上で運動を展開し、中には現地入りした人まで現れた。
「気がしんどいですね」とぽつり
玉川氏を除く登場人物は石戸氏の取材に応じ、率直に自身の考えや悩みを口にしている。興味深いのはその「普通さ」だろうか。取材に対して彼らは神格化や悪魔化の対象とは思えない素顔を見せている。
たとえば吉村洋文・大阪府知事。所属する日本維新の会は発足直後から常に対立と分断を生む存在となってきた。石戸氏はコロナ禍の収まらぬ2021年、吉村氏と大阪のテレビ番組で共演する。以下はその時のエピソードだ。石戸氏は必ずしも吉村氏や維新の政策にはシンパシーを抱いていなかったという。
「しかし、初対面の印象は決して悪いものばかりではなかった。私の記憶に強く残っているのは、オンエアー中に連呼していた『府民へのお願い』や『方針』よりも、CM中にぽつり、ぽつりと自身の職責について語っていた言葉だった。
『体というより、気がしんどいですね。常に感染者数のこと、病床のことばかり考えていて、気が休まらないです。感染が広がれば、亡くなる人は増えます。医療従事者はずっと大変な状況にいる。飲食店をやっている友達だっていますし。かたや感染しても自分は大丈夫だと思う人もいる。難しいですよ、社会は。いろんな立場の人がいますから』
ただ一方的に『敵』を仕立て、自分を正義とする構造を作るのではなく、綺麗事だけではすまない複雑な社会と丸ごと向き合おうという気概は感じられた」(『「嫌われ者」の正体』より引用・以下同)
目の前にいるのは、維新の支持者が称賛するスーパー知事でもなければ、アンチ維新が口汚くののしる無能な為政者でもなく、疫病の前で苦悩する、ごく普通の男性だったのである。
弁護士時代も「記憶に残っていない」
この印象は周辺の取材でも強化される。吉村氏の弁護士時代を取材した石戸氏は、ある訴訟で対立していた弁護士らに話を聞くが――。
「拍子抜けするほど何も出てこなかった。彼らが口を揃えたのは私が取材で尋ねるまで吉村が関わっていたことなど全く知らなかったこと、そして弁護団の一人にはいたかもしれないが記憶には全く残っていないというものだった」
個々の置かれた状況やスタンス、主張、キャラクターは異なるものの、取り上げた人物は決して映画に登場するジョーカーのような特異な人物ではない。しかし何かをきっかけに、あるいはステップに、彼らは渦中の人となっていく。「嫌われ者」として君臨するのだ。
この構図は、先の東京都知事選でも見られたものだといえるだろう。数週間前まで都民の多くが知らなかった石丸伸二氏が、革命的なリーダーとして強い支持を得たのは記憶に新しい。その際には、支持と同じくらいの熱量での反発も生まれていた。
思慮深さを失わない
このような状況下において、私たちはどのようなことを心得ておく必要があるのか。石戸氏に改めて聞いてみた。
「『嫌われ者』と言って失礼ならば、トリックスターと言ってもいいでしょうが、そういう存在は今後も次々現れて、社会を騒がせることになるでしょう。ネットやSNSの影響で、より簡単に生まれて、消えていくことが繰り返される。極端な言説を唱える人々、分断をあおる人々が新しく登場しては、社会を、私たちの心をざわつかせる。
インスタントで作られた『正義』が、あたかも普遍の真理のように語られるわけです。それを信じる人にいくら『それは極論ですよ』と言っても耳を貸してはもらえないでしょう。
個人としてできることは、それら極論に流されないこと、常に冷静さと思慮深さを失わないように心がけることではないでしょうか」