客に失望されても“ハゲキャラ”は拒んだ…「歌丸さん」の落語愛 旧友だから語れる「笑点」とは別の顔

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「笑点」では、林家木久扇(初代林家木久蔵)と故・桂歌丸さんの掛け合いを楽しみにしていた視聴者も多かった。プライベートでも親交のあった2人だが、実は落語に対する姿勢は正反対。そのため「芸談義」も極力、避けてきたのだという――。木久扇が林家たけ平を相手に語る。

 (前後編の後編)

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※この記事は『木久扇の昭和芸能史』(聞き手・林家たけ平、草思社)の内容をもとに、一部を抜粋/編集してお伝えしています。

歌丸さんの実家の“特殊な職業”

林家木久扇(以下K):ぼくも歌丸さんも、昔のチャンバラ映画が好きで、よくしゃべってました。だから時代劇のDVDの貸し借りもしていたんです。でもね、既製品だとちゃんと見られるんですが、歌丸さんが自分の家でダビングをしてくれたものは、映ってないんですよ。機械の操作がわかんないらしくて。

――初歩的なことで……。

K:ええ。でも送ってくれるから、「あれ、木久ちゃん観た?」って聞かれると「ええ、観ました。面白い映画ですねえ」って答えてたの(笑)。「まぼろし城」(組田彰造監督、1940)っていう映画を、 結局観れてないんですよ。でも歌丸さんが「あんな山の上にお城建てて住んでるのに、トイレの排泄物はどうするんだろうね」って言うんで、内容は知らないんだけど「困ったもんですね」って話を合わせて。

――ちゃんとやりとりできてますね(笑)。

K:ちゃんとダビングできていないテープを7本くらい送ってもらったことがあります。サーッって何も映ってない。機械音痴なんですね。でもそういう世話焼きで。それで亡くなられた時も、ダンボールに3箱、時代劇のVHSを40本、歌丸師匠のおかみさんから送られてきました。中村錦之助とか東千代之介とかの。そのくらい昔の映画がお好きでした。

――歌丸師匠というと、横浜出身で釣り好きというイメージでしたが、映画もお好きだったんですね。

K:歌丸さんは生まれが横浜の真金町(まがねちょう)というところで、すごく横浜愛が強い方でしたね。真金町は東京で言えば下町みたいなところで、とても大衆的な町なんです。歌丸さんの実家はご家業が変わってまして、お茶屋っていう職業だったんです。

――それは何でしょうか?

K:女の子を紹介する、そういう特殊な職業だったんですね。小さい旅館みたいな形式で。戦後はずいぶんアメリカ兵がやってきて、チョコレートやチューインガムやキャメルなんかの珍しい煙草が手に入るんで、おばあちゃんがよくくれたらしいんですよ。そういうおばあちゃんだから手廻しがよくて、学校の担任の先生にもガムやチョコレートをとどけていたので、歌丸さんの扱いがすごいよかったらしいんですよ。

――そういう優遇のされ方があった時代なんですね(笑)。

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