ブルース・リーと白熱の格闘シーン「ジャバ―」 お家芸“スカイフック”の意外な原点(小林信也)
駆け出しのスポーツライターでもあった大学時代、原稿料をもらってはロサンゼルス(LA)に渡り、1カ月ほど滞在した。昼は世界選手権を目指してフリスビーの練習。夜はNBAやNFLを見に行った。1970年代の後半、LAレイカーズの花形選手は218センチの長身選手カリーム・アブドゥル・ジャバーだった。
【写真をみる】合成みたいな体格差! 170cm「ブルース・リー」と218cm「ジャバ―」の“格闘シーン”
“スカイフック”というジャバー独特のシュートに最初は戸惑いを感じた。長い腕を斜め上に伸ばし、人を食ったように軽く指先でボールを跳ね上げる。と、ガードする相手の頭上をボールが舞い、寸分の狂いもなくリングに吸い込まれた。そのたび、当時の本拠LAフォーラムの大観衆が歓声を上げた。
スピーディーな攻防の中で、ボールがジャバーの指先を離れ、ふんわりと宙を舞う1秒ちょっとの間だけ、時間が止まったような異次元の感覚に包まれた。
後で知った話だが、ジャバーのスカイフックは大学時代、得意のダンクを禁じられたために磨きをかけた技だった。
ニューヨークのハーレムで最も背が高かった高校時代、ジャバー(当時の名はルー・アルシンダー)は71連勝を含む95勝6敗の成績をチームにもたらした。UCLAに進学後も3年連続全米選手権を制覇、いずれもMVPに輝いた。長身選手の桁違いの活躍を懸念したNCAA(全米大学体育協会)は、ダンクを禁止した。得意のプレーを封じられた彼は、その制約をバネにして、新たなお家芸を編み出して活路を見いだしたのだ。
69年のドラフトでミルウォーキー・バックスに入団。初年度から最優秀新人賞の活躍を見せ、チームを2位に押し上げた。2年目には20連勝を含む66勝の原動力となり、得点王、シーズンMVPに輝いた。NBAファイナルでもボルティモア・ブレッツに4連勝、ファイナルのMVPに選ばれた。
75年、レイカーズに移籍してからジャバーは低迷していたチームを復活させ、14季中5回もチャンピオンに導いた。
凱旋パレードの熱狂
ジャバーとマジック・ジョンソンを中心とする華麗な速攻が「ショータイム」と呼ばれていた84―85年シーズンの終盤、私はLAに滞在していた。
ボストン・セルティックスとの勝負は散々な幕開けだった。初戦は114対148。34点もの差がつく大敗は、〈メモリアルデーの虐殺〉とまで形容された。パット・ライリー・ヘッドコーチがこの試合の戦犯としたのが38歳のジャバーだった。ジャバーは相手のセンター、ロバート・パリッシュに封じられ、わずか12得点3リバウンドに終わった。ライリーは試合後、ジャバーの失敗シーンを全員の前で繰り返し見せた。大変な屈辱だが、ジャバーは自分より若い選手全員にわびたという。ジャバーはそういう人だった。
ふがいない自分に奮起したジャバーは、第2戦で30得点17リバウンドと復活。レイカーズも息を吹き返し、4勝2敗で3年ぶりの王座に就いた。ジャバー自身、71年以来14年ぶり2度目のファイナルMVPに輝いた。これはいまも残る歴代最年長記録だ。
111対100で勝負を決めた第6戦は、セルティックスの本拠ボストン・ガーデンが舞台だった。その2日後、6月のよく晴れた日、レイカーズ凱旋を迎える大群衆の歓迎式典を私はその輪の中で見た。LAシティホール(市庁舎)前の公園が人で埋め尽くされ、市庁舎の正面階段上からジャバーが、マジックが、大歓衆の歓呼に手を振り、踊った。共に喜びを分かち合った。その後日本で巨人の優勝パレードやリオ五輪メダリストのパレードなどを見たが、あの時の群衆と熱狂のボルテージには及ばない。地元に根差すプロスポーツの熱さを実感する出来事だった。
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