親族の男女に“行為”を強要、服を脱がせて“水攻め”に…尼崎事件の主犯・角田美代子がいくつもの家族を破滅に追い込んだ戦慄の手口
第1回【監禁や虐待でいくつもの家族を隷属させた「尼崎事件」の悪夢…元高校球児はなぜ「角田美代子」の“暴力装置”となったのか】の続き
2011年11月26日、同月初旬に兵庫県尼崎市で見つかったコンクリート詰めの遺体をめぐり、5人の男女が逮捕された。この5人に主犯が含まれていたことが端緒となり、翌12年10月に発覚したのが「尼崎事件(尼崎連続変死事件)」である。複数の家族に“介入”し、監禁や暴力、虐待で次々と命を奪った主犯は角田(すみだ)美代子。同年12月12日に美代子が留置所で自死を遂げる一方、彼女が作り上げた「角田ファミリー」は共犯者として取調べに応じていた。
2015年11月、「週刊新潮」はファミリーの“暴力担当”で、美代子の義理のいとこにあたる李正則(41)の供述調書を入手。今回の第2回は、実際の“介入”手口やその後の恐怖支配についての供述をお伝えする。
(全3回の第2回:「週刊新潮」2015年11月19日号「殺戮の女帝『角田美代子』暴力担当の供述調書120枚!」をもとに再構成しました。文中の年齢、役職等は掲載当時のままです)
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【写真10枚】洗濯物で満杯の風呂、ベランダの不気味なホース…「角田美代子の自宅」衝撃の内部
今はうちの言う事しか聞かん子になっとんや
正則が「暴力装置」としてフル稼働したのは、美代子ファミリーが03年春、正則の継父の親戚(M姓)にあたる香川県・高松市のT家に乗り込んだ時である。
〈(継父は)高松で暮らしている妹のH(注・09年6月に死亡、享年59)の家が少し金持ちだという話をしていました。それに目をつけたのか、美代子は「マサがこんな風に悪く育ったのはM家の責任や」と言い出しました〉(13年9月27日付)
一家の乗っ取りの手順について正則は、13年9月19日に合同捜査本部に宛てて綴った「自供書」の中で、
〈美代子から、やったれよと言われました(怒鳴ったり、暴れたれ)〉
と、以下のように振り返っている。のちに3体の白骨死体が発見された尼崎市のM家に親族を集め、
〈美代子から私に、チョンチョンと合図が届き、私は立ち上がり、大声で叫び、喰ってかかり、コタツをけったり、つかみかかったりしました。頃合を見て、美代子が止めました。そして、私の事を、もうあんたらが知ってる昔のマサやないんや、今はうちの言う事しか聞かん子になっとんや〉
などと恐れを抱かせた後、正則は先兵として四国へ上陸したのだった。
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