【光る君へ】「彰子」より大きく時代を動かした「妍子」母娘 道長の死後も強い影響力をもった

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摂関政治を終わらせた妍子と禎子

 道長の野望が実現といったが、半分は真実ではない。後三条天皇は両親ともに道長の孫だが、すでに摂関家との関係は薄い。後三条天皇はすでに摂関家が介入しにくい天皇になっていた。そして、その後三条天皇も延久5年(1073)には亡くなり、その翌年には摂関系の黄金時代を築いた頼通が、さらには彰子が、その翌年には教通が没した。

 次に即位したのは後三条天皇の嫡男で、院政を開始した白河天皇だった。その間も禎子は生き続け、82歳で没したのは寛治8年(1094)。白河天皇の子の堀川天皇の時代で、すでに摂関政治は過去のものとなり、院政がはじまっていた。

 彰子は87歳の生涯をとおして、強い影響力を天皇家にも摂関家にもおよぼし続けた。一方、妹の妍子の一人娘である禎子は、結果的に国母として影響力を勝ち取り、政治の表舞台から摂関家を追い払うのに貢献した。

「光る君へ」で父の道長に向かい、自分のことを「父上の道具」と呼ぶなど恨み節を述べ、反発していた妍子。彼女自身は、残念ながら早世してしまったが、娘の禎子をとおし、摂関政治を終わらせるというかたちで「恨み」を晴らしたともいえる。その意味では、彰子よりもむしろ妍子母娘のほうが、時代を変える力を働かせたともいえる。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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