【光る君へ】「彰子」より大きく時代を動かした「妍子」母娘 道長の死後も強い影響力をもった

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禎子と後朱雀天皇の関係は悪化したが

 三条天皇は皇后の娍子を寵愛し、4人の皇子と2人の内親王を産ませていたが、道長にとっては、次女の妍子が産んだ禎子内親王こそが大事だったことは、いうまでもない。治安3年(1023)に女子の成人式に該当する裳着を行った際、すでに皇族としての最高位の「一品」があたえられている。そして先述したように、母の妍子が亡くなる半年前に(それは道長が亡くなる8カ月前でもあった)、東宮の敦良親王に嫁いだ。

 じつは敦良親王に禎子内親王の血を入れることには大きな意味があった。この時代の天皇は、ともに村上天皇の皇子だった冷泉天皇と円融天皇の血統から交互に出すことになっていた。そして一条天皇も後一条天皇も円融系、そのあいだに挟まれた三条天皇は冷泉系だったが、村上天皇の嫡男は冷泉天皇であり、円融天皇は次男なので、冷泉系のほうが正統だったのである。

 後一条天皇の次は弟の後朱雀天皇だから、円融系が続いてしまう。だが、そこに禎子の血を入れれば、道長の血を濃厚にしつつ、80年近くも分かれたままだった冷泉系と円融系を合一させることができる。道長はそれをねらったと考えられる。

 結局、禎子は敦良親王とのあいだに、良子内親王、娟子内親王、尊仁親王という3人の子に恵まれた 。ただし、長元9年(1036)に敦良が後朱雀天皇として即位すると、翌年2月に中宮になるものの、3月には藤原頼通の養女である嫄子が入内して中宮になったため、禎子は皇后に押し出される。このころから後朱雀との関係は悪化し、ほとんど交流が絶えてしまったようだ。

57歳での悲願達成

 しかし、それでも「あきらめつつ生きて参」る人生にはならない。三条天皇から多くの財産を譲られ、母の妍子が継承した枇杷殿という大邸宅を所有し、祖父の道長の財産も受け継いでいた。要は、大邸宅に住まう荘園領主として、独立した存在だったのである。

 さて、頼通が送り込んだ嫄子は2人の内親王を出産したものの、皇子は産まないまま長暦3年(1039)に亡くなる。ただ、後朱雀天皇は敦良親王時代、それも禎子内親王が嫁ぐ以前に、道長の末娘の嬉子が嫁いでいた。嬉子は万寿2年(1025)、出産から2日後に死去してしまったが、このとき生まれた親仁親王は育っていた。

 寛徳2年(1045)、後朱雀天皇が亡くなると、親仁親王が後冷泉天皇として即位した。皇太后となった禎子内親王自身、これで表舞台から身を引くことになると思ったのではないだろうか。実際、そのころからしばらく、禎子のことはよくわからない 。

 しかし、後冷泉天皇は在位こそ20年を超えたが、皇子が生まれることはないまま、治暦4年(1068)に没してしまう。そこで禎子内親王が産んだ後朱雀天皇の子、尊仁親王が即位することになった(後三条天皇)。それは冷泉系と円融系が合一した天皇の誕生だった。道長は没後40年にして、野望を実現したともいえる。

 禎子はすでに57歳になっていた。母の妍子が手に入れることができなかった太皇太后にして国母という立場を、この年齢でつかんだのである。

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