【光る君へ】「彰子」より大きく時代を動かした「妍子」母娘 道長の死後も強い影響力をもった
彰子に大きく差をつけられた妍子
藤原道長(柄本佑)の次女で、三条天皇(木村達成)に嫁いで中宮になった妍子(倉沢杏菜)と、その娘の禎子(つまり道長の孫娘)。母娘がくつろいでいるところに、道長が訪ねてきた。冷たい口調で「いかがされましたの?」と尋ねる妍子に、道長は「お顔を見に参りました。中宮様と内親王様の。かわいらしくお育ちになられましたな」と語りかけた。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第44回「望月の夜」(11月17日放送)の一場面である。
妍子は吐き捨てるように「なにをいまさら」と返し、こう続けた。「父上は禎子が生まれたとき、『皇子ではないのか』と、いたく気を落とされたと聞きました」。さらに「父上の道具として歳の離れた帝に入内し、御子も埋めなかった私の唯一の慰めは、贅沢と酒なのでございます」と告げて、こう強く言い放った。「お帰りくださいませ。私はここで、この子とともにあきらめつつ生きて参りますゆえ」。
一方、道長の長女で一条天皇の中宮だった皇太后の彰子(見上愛)は、態度がじつに毅然としている。譲位を迫られた三条天皇が、最後の頼みの綱として、自分の娘である媞子内親王を、道長の嫡男の頼通(渡邊圭祐)に降嫁させると言い出したとき、道長は彰子に相談にいった。このとき頼通は 抵抗しているという話を受け、彰子は「この婚儀はだれも幸せにせぬと、胸を張って断るがよい」と、きっぱり言い切った。
しかも、長和5年(1016)正月、いよいよ三条天皇が譲位して後一条天皇(濱田碧生)の即位式が行われると、式でもっとも大事な装置である高御座に、彰子は息子である天皇とともに着座した。後一条天皇が数え9歳のときだが、母后が幼い天皇と一緒に高御座に登ったのは、史料に登場するかぎりこれが最初だった。彰子は国母のなかでも特別な国母になったのである。
圧倒的な存在だった彰子との差
その後、寛仁2年(1018)には三女の威子(佐月絵美)が後一条天皇のもとに入内し、道長の3人の娘が3つの后の座を独占。10月16日、立后の儀の晩に開かれた宴の場で、道長は有名な「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」という歌を詠むことになった。
だが、「光る君へ」では、あいさつする道長に向ける后たちの表情は、妍子と威子は睨みつけんばかりで、ひとり彰子だけが「頼通がよりよき政を行えるよう願っておる」と穏やかに言葉をかけ、貫禄を示した。
その後についても、彰子だけが圧倒的な存在感を示し続けたのはまちがいない。皇子を出産しないままだった妍子は、もはや表舞台に立つことはなく、「光る君へ」での、「私はここで、この子とともにあきらめつつ生きて参ります」というセリフを地で行く人生だった。そして、万寿4年(1027)に禎子内親王が、彰子の次男である東宮の敦良親王(のちの後朱雀天皇)に嫁ぐと、その半年後に病没している。
威子もまた、9歳年下の後一条天皇とのあいだに生まれたのは2人の内親王で、後一条が29歳で亡くなると、半年もせずに伝染病で没している。
彰子の場合、道長が亡くなる前年の万寿3年(1026)に出家しながら、清浄覚という法名を持つ最高位の尼、太皇太后、叔母(道長の姉)で義母(一条天皇の母)の東三条院詮子に倣った女院の上東門院、という圧倒的な立場で、天皇家にも摂関家にも強い影響力をたもち続けた。妍子と威子は、后として天皇家の中核に入りながら、皇子を産まなかったために強い力を持つにいたらなかった。
ただ、妍子の場合、一人娘の禎子内親王は「あきらめつつ生きて参」るような人生は送らなかったのである。
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