「一つ屋根の下」に作家が二人暮らすと起こること 「大作家同士の結婚生活」吉村昭と津村節子【11/22 いい夫婦】

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 11月22日は語呂合わせで「いい夫婦の日」。

 文学界のおしどり夫婦と言われたのが、『戦艦武蔵』などでベストセラー作家の誉れ高い吉村昭氏と芥川賞作家の津村節子氏だ。

 吉村氏が菊池寛賞受賞の際、師にあたる作家・丹羽文雄(にわふみお)氏が〈……節度ある妻の協力があってのことにちがいない〉と祝辞を贈ったという。

 当の生前の吉村氏は、「夫婦で小説を書いているというのは、一つ屋根の下に鬼が二匹棲んでいるようなものだから」、と語っているが……。

 互いに作家として大成した上に、夫婦円満を保って添い遂げた小説家夫妻の「奇跡」を『吉村昭と津村節子 波瀾万丈おしどり夫婦』(谷口桂子・著)から紹介する。

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二人が共に暮らし続けられたのは?

 一つ屋根の下で暮らして、距離の取り方が絶妙だったこともあるだろう。

「ものを書く人間が同じ部屋にいるっていうのは、やっぱりね、お互いピリピリしますよ。お互いの緊張が電波のように通じるわけですよ。なんとか部屋をね、もう一つ書斎がほしいなっていうのが、お互いの願いでしたね」(吉村昭記念文学館「証言映像(1) 瀬戸内寂聴・津村節子 吉村昭を語る」)

 独立した書斎が実現したのは、1969年(昭和44年)に終の棲家に引越したときだった。「つかず離れず、私の交友術」と題したインタビューで、津村は次のように述べる。

〈自分の中でルールを決めて、ある程度距離を置く、近づきすぎない、というつきあい方が賢明だと思います。〉(「婦人公論」平成12年6月7日号)

 夫婦間でも同じ暗黙のルールがあったのではないか。普段は距離を置いて素っ気なく暮らしていても、相手が窮地に立ったときは最大限の協力をする。夫婦同業のよさとして、津村はスランプになったときの思いやりをあげている。それがどんなに辛いかがわかるからだ。放っておいてほしいのか、何かしてほしいのかという対処法もわかる。

 ともにスランプになってしまったときは余裕がなくなるにしても。

 距離もルールも吹き飛んでしまったのが、津村が右目の視力を失ったときだった。

 文芸評論家の大河内昭爾(おおこうちしょうじ)によれば、そのときの吉村は、〈なかなか愚痴を口にしない吉村さんが津村さんの眼病を自分のことのように不安がっていた〉(「文學界」平成20年10月号)という。周囲に迷惑をかけたくないため、自身の病は伏せるように厳命した吉村だが、津村の目の病は親しい仲間や編集者も知っていた。

 瀬戸内寂聴は次のように証言する。

〈目が悪くなった時は、本当に気にされていました。自分のために、ずっと節子さんが才能を抑えてきたから、このまま書けなくなったらどうしようと言い、うろたえられていました。〉(「小説新潮」平成19年4月号)

 瀬戸内の秘書の長尾玲子によれば、吉村に電話をすると、

「……目なんですって言うから、私も絶句して、えって言ったら、絞り出すような震える声で、だいぶ間があって、あの人は小説家です。目が見えなくなったら僕はどうしようっておっしゃって、また絶句されてるんですね。泣いてんのかなって感じで」(吉村昭記念文学館 「証言映像(1) 瀬戸内寂聴・津村節子 吉村昭を語る」)

 作家にとって目は命でもあり、心配性の吉村がどれほど気を揉んだことだろう。編集者が気遣って小料理屋に誘っても、酒も喉を通らず、早々に自宅に送り届けることになった。

 津村は20日間入院したが、大阪に講演に行った日以外、吉村は毎日病院に見舞いに来た。

〈ただ黙って座っているだけでしたが、どんなに心強かったことか。〉と津村は感謝している。

 吉村が津村をいちばん心配したのは目の病のとき、そして自分のとき以上に喜んだのが、津村が日本藝術院賞を受賞したときだった。

 生活を共にする夫婦として、そして同業の作家同士として。吉村の中には作家と夫が同居し、津村には作家と妻が同居する。吉村の死後も、津村はその狭間で揺れ動いた。

〈夫と思っているといろいろ辛いことばかり思い出すのですが、作家吉村昭はこういう仕事をしていたんだ、ああ、こういう作品を書いていたんだ、というふうに思うようにしています。〉(「小説新潮」平成19年4月号)

 そのときから数年の時間を経て、津村は作家として吉村の最期を『遍路みち』『紅梅』に描き切った。『遍路みち』(講談社文庫)のあとがきには、

〈今自分に書けるものは、吉村の死について以外になく、もう一度それを再現するつらい仕事になった。漸く押し込めていた吉村のけはいが、濃密に漂い始めたのである。〉

 と記し、

〈……『紅梅』を書いて、夫としてあの人が身近に戻ってきたような気がしているのです。〉(『吉村昭が伝えたかったこと』文春文庫)

 とも語っている。

 点滴の管を自らはずすという吉村らしい最期を書けるのは津村しかいなかった。自分のことは3年は書くなと吉村は遺言に記していたので、いずれ書くのは承知だったのだろう。

 津村の文壇デビュー作の初期の短編も、作家としての集大成の作品も、共に夫を題材にしたものとなった。

 夫婦としての歳月をすべて小説に結実させ、作家として両雄並び立っている。

性格が対極だったことも功を奏し……

〈私は気が短いし、彼女もせっかちである。性格が似ている点が多いだけに……〉(『月夜の記憶』講談社文庫)

 と互いの性格のことを吉村は書いていて、そういう面はあったのかもしれないが、対極だと思うことが多い。それがかえってよかったのかもしれない。

 津村は自身の性格を〈八方美人〉(『書斎と茶の間』毎日新聞社)としている。一方の吉村は、つき合うのは編集者で同業の作家に友達はいなかった。吉村は心配性。津村については、担当編集者が次のような逸話を明かす。

「私が胃がんになったときでした。臆病なので、すっかり落ち込んでしまいました。そのことを津村さんに話したところ、そんなの切っちゃえば平気よ、と。あっけらかんと、そんなことを言う人はいなかった。それで気持ちがすっとラクになりました」

 終の棲家となった150坪の土地を買ったときも津村が即決した。即行動し、大胆に決断する。定住を好まない吉村は住居に関心がない。すべて津村の裁量に任され、衝突することはない。

 若い頃から津村は家計のやりくりにたけていて、生活力も旺盛だった。吉村が処女短編集『青い骨』を自費出版するときは、郵便貯金通帳を差し出し、山内一豊の妻だなと言わしめている。

 土地や住居に関心はないが、吉村も大きな買い物をしている。田野畑村(たのはたむら)の村長に頼まれて岬を一つ買っていた。さらに乳牛のオーナーになってほしいと言われて、血統書付きの牛も買っている。

 新潮社から『吉村昭自選作品集』の刊行が決まったとき、吉村が元担当編集者の栗原正哉に宛てた手紙には、二人の性格の違いがあらわれている。

〈昨夜は、快く飲みました。女房は喜んで、家族旅行をしようと言い、なぜあなたは大喜びしないのと言い、売れないと迷惑をかけるので……と答えましたら、あんたという人は……と怒ってしまいました。性分ですからなおりませんが(略)〉(「波」平成22年11月号)

〈人間は土壌に生えるキノコ〉という記述は二人の著書に登場するが、下町の家屋密集地帯で育った吉村は、たえず周囲に気を遣った。一方、長く雪に閉ざされる福井出身の津村は、少々のことでは挫折しない。柳に雪折れなしというように、耐える力と立ち直る力がある。

 吉村は次のように述べていたと津村は記す。

〈夫は、私を、純粋な越前(えちぜん)女ではないという。おまえが努力家であるという点は越前の気質を受けついでいるが、理屈が多く、頑固なところは信州の血だというのだ。〉(『女の居場所』集英社文庫)

 津村の父は信州出身だった。津村の頑固なところは、負けず嫌いからきているので扱いにくいとつけ加えている。

 負けず嫌いの津村が吉村昭という大きな才能と出会い、負けたくないがために努力を重ねた。一方の吉村も一家の主としての重責からひたすら邁進した。文学の上での出会いで、これ以上の相乗効果はなく、その結果どちらも見事に才能を開花させた。

 おしどり夫婦と言われた二人を長男の吉村司(つかさ)は次のように見る。

「父がなんで怒っているか、母はわからなかったから、長く一緒にいられたんじゃないでしょうか。原因がわかったら追い詰められますからね。いい意味での鈍感力ですね」

 普段の生活で、津村と過ごすことが多い司の妻も、

「つい言い過ぎたりして、ちょっとした諍いになっても、義母は次の瞬間にさっと切り替えられるんです。根に持たないでいてくれるので、とても助かっています。義母の前向きな明るさは、義父と家庭を築く上でも、とても大きかったと思います」

 内にため込まず、すさまじいケンカをしたのも、夫婦円満の秘訣だったのだろうか。気持ちをごまかさずにぶつかり合ったからこそ、真のおしどり夫婦になれたのかもしれない。

 性格も小説の作風も違う二人だが、つれ添ううちに字まで似てきたと編集者の間では言われていた。

『吉村昭と津村節子 波瀾万丈おしどり夫婦』より一部を抜粋、再編集。

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