「ふざけるのもいい加減にしろ」…辛口解説「北の富士勝昭」氏が記者を怒鳴りつけた瞬間(小林信也)

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好敵手の死

「北玉時代」と呼ばれた玉の海(玉乃島から改名)とは好敵手であり、親友と認め合うほど仲が良かった。ある横綱会の余興で、玉の海がギターを弾き、北の富士が歌った。それを見て、春日野親方(元横綱・栃錦)が「時代が変わった」と驚いた逸話がある。

 だが、北玉時代はわずか1年半で突然の終焉(しゅうえん)を迎える。71年10月11日、日本列島に衝撃が走った。現役横綱・玉の海が急性虫垂炎の手術後に起こした肺血栓症で急死したのだ。

 私は中学3年、6限の技術家庭科の教師がいきなり、「玉の海が盲腸で死んだってさ」と言った。盲腸で? 横綱が? 真に迫った教師の顔、堅苦しい学校には素のままの言葉が珍しかったせいもあって、その表情も服装もはっきりと記憶に刻まれている。

 訃報を聞いた北の富士は、「ふざけるのもいい加減にしろ」と、伝えた記者を怒鳴ったという。やがて、事実とわかると人目もはばからず号泣した。

 その後は心に穴が開いたようだった。親友であり好敵手、共に相撲界を背負う玉の海を失って、「なかなかやる気が起きなかった」と後に告白している。

 幕内での対戦成績は北の富士の22勝21敗。親友の死から3年間で3度優勝し、74年7月場所で引退した。

 横綱の多くは引退後も厳しい表情が象徴的に記憶される。そんな中、北の富士は数少ない「ほほ笑みの似合う横綱」ではないだろうか。

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 引退後は九重部屋を継承し、千代の富士、北勝海の両横綱を育てた「名伯楽」でもあった。1998年に退職後は、NHKの相撲解説者となり、辛口の評論で人気を集めた。

 体調を崩し、昨年春から解説を休んでいたが、7月には収録で1年半ぶりに登場。9月の秋場所後に状態が悪化し、都内の病院に入院していたという。

 名力士、名親方、名解説者として、昭和、平成、令和の角界を支え続けた人生だった。

小林信也(こばやしのぶや)
スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

デイリー新潮編集部

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