「ふざけるのもいい加減にしろ」…辛口解説「北の富士勝昭」氏が記者を怒鳴りつけた瞬間(小林信也)
大相撲の第52代横綱・北の富士勝昭さんが死去していたことがわかった。享年82。
北の富士さんは北海道出身。14歳で初土俵を踏み、1966年に大関、1970年に横綱に昇進した。幕内最高優勝は10回。大鵬=柏戸の「柏鵬時代」の後を受け、同時昇進した横綱・玉の海と「北玉時代」を築いた名力士だった。
北の富士さんの相撲人生は「山あり谷あり」だった。その土俵生活を昨年、スポーツライターの小林信也さんが「週刊新潮」でレポートしている。以下、北の富士の覚醒の瞬間を再録し、昭和の角界を支えた名力士の功績を振り返ってみよう。
(「週刊新潮」2023年5月18日号記事の再配信です。文中の年齢、役職、年代表記等は当時のものです)
***
1998年からNHKの大相撲解説を務める北の富士勝昭は第52代横綱。幕内優勝を10回記録している。
私が北の富士に魅かれたのは、熱烈なファンだった豊山が大関昇進後に精彩を欠き、応援のしがいがなくなった時期。豊山の前に立ちはだかる佐田の山を倒してくれるのが北の富士だった。当時は、二人の浅からぬ因縁を知らなかった。
佐田の山と北の富士は、同じ出羽海部屋の力士。
66年7月場所後に北の富士の大関昇進が決まった時、使者を迎えたのは、北の富士と横綱・佐田の山だった。親方不在の伝達式はおそらく前例がない。直前3場所が8勝、10勝、10勝。まさか昇進すると思わない出羽海親方は出かけて留守だった。北の富士は前夜の大酒で熟睡していた。床山に起こされ、慌てて佐田の山の紋付を借りた。
その兄弟子と袂を分かつのは67年1月場所後だ。部屋付きの九重親方(元横綱・千代の山)が独立を申し出た。千代の山を頼って入門した北の富士は悩んだ末、「裏切り者」と非難を浴びつつ、九重部屋に移った。2番手から部屋頭となった。移籍直後の67年3月場所が、北の富士の最初の「覚醒の時」だったかもしれない。
[1/3ページ]