“職場放棄”で「戦力外通告」から復活のケースも 現役引退を撤回し、さらに飛躍した“名選手”たち

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 功成り名遂げた野球選手も、いつかは引退の日を迎える。その一方で、一度は現役引退を決意しながら、周囲の説得などで撤回し、さらなる飛躍を遂げた男たちも存在する――。【久保田龍雄/ライター】

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新庄剛志「23歳の引退宣言」

「センスがないから野球を辞める」と宣言し、“引退騒動”の主人公になったのが、阪神時代の新庄剛志である。

 1995年12月5日、球団と1回目の契約交渉を行った新庄はトレードを志願し、「受け入れられないなら引退したい」と伝えた。

 その背景には、野球観が異なる藤田平監督との確執があった。球宴前に足を痛めて2軍調整中だった新庄が、当時の藤田2軍監督から練習に遅刻したことを理由に1時間正座させられた事件が始まりだった。右肘を痛めた10月にも、藤田監督から2軍中心の黒潮リーグへの参加を強制され、「守備に就いたら(肘の腱が)切れるまで投げます。ダメだったら野球を辞めればいいんでしょう」と抗った。さらに新庄が師と慕う柏原純一コーチも解任され、不信は強まるばかりだった。

 藤田監督は新庄を「底知れぬ素質を持った男」と高く評価し、「チームを引っ張っていってほしい」と望んでいたが、新庄は「僕はそういう野球はしたくない。みんなで競い合ってやっていきたいんです」と反論するなど、両者の野球観の違いも軋轢に拍車をかけた。

 そんななか、球団と2回目の交渉が行われた12月19日、新庄は「2年前から自分なりに一生懸命やったが、結果が出なかった。野球に対する実力がないと判断して、そう球団に伝えました。トレード志願とか監督の問題とかじゃなくて、野球に対するセンスがない。それだけです」と引退を宣言する(後年、新庄は『どうせ辞めるのなら人のせいにしたくない』と考え『センスがない』を理由にしたことを明かしている)。

 まだ23歳。早過ぎる引退に世間は驚いたが、騒動は2日後に収束する。心労から父が体調を崩したことを知った新庄は12月21日、「(父に)ユニホーム姿を見せることが一番の薬だと思ったんです」と一転現役続行を宣言。これには球団側も「たった2日で……。新庄の考えというのは、我々の理解の及ばないところにある」(沢田邦昭球団代表)とあっけに取られるばかりだった。

 その後の新庄の選手、監督としての活躍ぶりは周知のとおり。もし、新庄が1995年限りで球界を去っていたら、少なくとも日本ハムは「セパ!プロ野球の好きな球団ランキング(2024年10月)」(CMサイト)で3位にランクされるほどの人気球団にはなっていなかったかもしれない。

引退決意の山崎武司が38歳にしてHR王になれた理由

 監督と衝突して2軍落ちし、一度は引退を決意したのが、オリックス時代の山崎武司である。

 移籍2年目の2004年、山崎は4月下旬に地元・名古屋で行われた西武戦に多数の知人を招待していたことから、伊原春樹監督に「頑張りますんで、スタメンで使ってください」と直訴した。

 伊原監督は4月27日の第1戦では7番DHで起用してくれ、山崎も3打数2安打と結果を出した。だが、翌28日はスタメンに山崎の名前はなかった。面目丸潰れとなり、内心不満で一杯の山崎に伊原監督は言った。「そんな状態で試合に入れないだろう」。山崎も「ああ、無理ですね」と答えると、そのまま試合をボイコット。間もなく2軍に落とされた。

 この時点で「野球を辞めよう」と決意した山崎は、家族に「今年で辞める」と伝え、9月から職場放棄して海外旅行に出かけた結果、当然のように戦力外通告を受けた。

「オレ、来年から野球できねえんだな」と寂しさを感じていると、8歳の長男が「パパ、何で野球辞めるの?」と尋ね、「もうちょっとやってほしい」と背中を押した。

 息子が野球に興味を持ってくれたことがうれしく、「子供のためにもう少し頑張ってみようかな」と思いはじめた矢先、翌年から新規参入する楽天・田尾安志監督から代打要員として声がかかり、入団が決まる。

「戦力外となった04年のオフに東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生したこと。そして、息子の願い。ふたつの奇跡が、山崎武司の闘志に再び火を灯してくれた」(自著「さらば、プロ野球 ジャイアンの27年」宝島社)。

 それから3年後の2007年、野村克也監督の「相手の配球を読んで打て」のアドバイスで主砲復活をはたした山崎は、自己最多の43本塁打を記録し、38歳にしてNPB史上2人目のセパ両リーグ本塁打王の快挙を達成した。

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