力道山の未亡人と次男が「40年近く断絶」状態なことが判明 次男は「もう関わりたくない」
「日本プロレス界の父」力道山は、1924年11月14日に生まれたとされ、この14日は生誕100年の節目。それを祝うパーティーにはそうそうたる顔ぶれがそろったが、そこに実の息子・百田(ももた)光雄氏(76)の姿はなかった――。
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今月9日夕刻、帝国ホテル2階「孔雀の間」にて「力道山 生誕100周年記念パーティー」が開催された。昭和を代表する人物の生誕パーティーとあって、王貞治氏、張本勲氏、徳光和夫氏ら各界の著名人を含む約350名の招待客で会場はにぎわい、佐々木健介・北斗晶夫妻の乾杯でパーティーは始まった。
途中、主催者である力道山の未亡人・田中敬子さん(83)が歌手の佳山明生氏と「テネシーワルツ」をデュエットする一幕もあったといい、さぞ盛り上がったのかと思いきや、
「会費は2万円で座席は早い者勝ち。何十人も座れない人が出ていた。また、力道山先生の写真など展示物は一切なく、正直簡素なパーティーだと感じました」
さる出席者はこう振り返るが、参加者の顔ぶれは豪華そのもので、先に挙げた面々に加えて、力道山門下のグレート小鹿氏や、藤波辰爾氏らも参じた。
しかし、力道山の次男にしてプロレスラー、百田光雄氏の姿がなかったのはなぜなのか。
40年近い断絶
「実は、敬子さんと僕はもうかれこれ40年近く、まともに交流してないんです。にもかかわらず、8月ごろパーティーの招待状が届いたので驚きました」
と、光雄氏本人が明かす。
「敬子さんと父が結婚した時、僕はまだ中学生。結婚から半年後に父は不慮の死を遂げましたが、敬子さんとは赤坂の“リキアパート”で一緒に暮らした間柄ですし、当時は義理の母でもありました」
63年12月に力道山が亡くなると、敬子さんと子供たちには莫大な財産が遺されたが、そのほとんどが不動産であったために相続税の支払いに苦慮した。
「相続を放棄する手もあったはずなのに、敬子さんは父の事業を引き継ぐことにして、遺産も勝手に5等分してしまった。でもほとんどが不動産だから入ってくる金はない。それどころか20億円を超える相続税がまだ子供だった僕らに降りかかってきました。その挙句、何の説明もなしにパッパと百田家から出てしまった」(同)
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