「おっとりしたところも」「最初は手塚治虫さんをまねして」 幼なじみが明かした「楳図かずおさん」“恐怖漫画の第一人者”までの道のり【追悼】

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表層的な評価しかされていなかった

 63年に上京。小学校ごと荒廃した未来にタイムスリップする「漂流教室」は死の描写を厭わずに子供たちの生存を懸けた行動、心理、母親の思いを表現、「洗礼」では美につかれた母親が娘に自分の脳を移植して若さを取り戻そうと企む。こんな恐怖作品がヒットする一方で、幼稚園児が暴れまわるギャグ漫画「まことちゃん」も大人気に。追いかけられれば恐怖、追いかければギャグ、ものの見方の違いでしかないと考えていた。

 意識が芽生えた産業用ロボットを描く「わたしは真悟」は、恐怖やギャグとは違う味わいだった。

「文学、映画、演劇、音楽などあらゆる80年代の文化のうち、最高の傑作でした。当時、取材をしましたが、作品の芸術的な価値を信じていた。売れていた一方、表層的な評価しかされていなかったのです」(呉さん)

 漫画のキャラクターに頼らず、ストーリーを作ってきたと自負していた。

「東京から時々電話があり、ネタ切れや、と言うんです。1時間ぐらい雑談しました。ヒントを探しとったんやろうね。五條にも帰ってきて、私らと喋ったり、相変わらずよく歩いていた。道端でのサインにも気軽に応じていた」(井上さん)

「今度は自分が作品」

 95年、「14歳」の連載終了後、腱鞘炎を理由に休筆。紅白の横縞シャツ姿でテレビのバラエティー番組に出演、今度は自分が作品と語った。

 2018年、フランスのアングレーム国際漫画祭で永遠に残すべき作品として「わたしは真悟」が遺産賞に輝く。受賞を機に、101枚の連作絵画「ZOKU-SHINGO 小さなロボット シンゴ美術館」を22年に発表。27年ぶりの新作で大規模な美術展も開かれた。

「去年12月、五條の中学校で講演をしてくれた。生徒の出した手紙に応じたんです。有名人になっても全く変わらない」(井上さん)

 7月に進行した胃がんが見つかる。手術はせず、10月28日、88歳で逝去。

 結婚せず恋愛にも興味はないと語っていた。8月には著作権を管理する一般財団法人を設立していた。

週刊新潮 2024年11月21日号掲載

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