球史に残る「ダメ監督」!? 短期間で辞任や解任に追い込まれた“悲運の将”列伝
「勝率5割を切ったAクラスなんて」
チームをAクラスに導いたのに、たった1年で解任されたのが、太平洋のプレーイングマネージャー・江藤慎一監督である。
1974年オフ、太平洋は稲尾和久監督の後任として、「かつての西鉄のような荒々しい野球を」と大洋の主軸打者・江藤に白羽の矢を立て、河原明との交換トレードで入団させた。
熊本出身の江藤監督は「プレーイングマネージャーとして全力を尽くし、優勝を目指したい。口だけではなく、体でぶつかり、“九州人の野球”というチームカラーを打ち出したい」と力強く抱負を語った。翌75年は土井正博、白仁天らの移籍組を加えて厚みを増した“山賊打線”が爆発し、前期2位、シーズン3位(当時のパ・リーグは2シーズン制)を記録。首位打者・白、本塁打王・土井に加えて、東尾修も23勝を挙げ、最多勝のタイトルを手にした。
だが、球団側は「勝率5割を切ったAクラスなんて評価のしようがない」(中村長芳オーナー)と“塩対応”。一度は留任が決まったものの、その後、球団がドジャースなどの監督を歴任したレオ・ドローチャーの招聘に動いたことから、打撃コーチ兼選手への降格を打診された江藤監督は「自由の身になりたい」と自ら自由契約を申し出、一選手としてロッテに移籍した。
ドローチャー監督は実現しないまま幻と消え、チームも翌年以降(77年からクラウンに名称変更)低迷。78年オフに西武に身売りすることになった。
「最後に勝って良かった。もう二度とユニホームを着ることもないから…」
2度にわたって同一チームの監督に就任しながら、いずれも1年でクビになったのが、阪神・後藤次男監督である。
最初の就任は1969年。当初球団は前南海監督の鶴岡一人氏を後任に迎えようとしたが、断られたため、翌年までのつなぎとして、後藤ヘッドコーチを内部昇格させた。
同年、後藤監督は巨人と9月までV争いを演じ、前年と同じ2位をキープしたばかりでなく、田淵幸一に新人王を獲らせるなど、まずまずの結果を出した。
だが、シーズン中から鶴岡氏に再度アタックしていた球団は、その後、鶴岡氏が入団を断り、後藤監督続投を勧めたにもかかわらず、「監督を若返らせて長期政権を」とエース・村山実をプレーイングマネージャーに就任させた。
この間、シーズンオフの秋季キャンプにも参加できず、事実上解任状態だった後藤監督は“クマさん”の愛称で選手たちに慕われた温厚な性格さながら、「新監督の下、タイガースが強くなることだけを願っている」と“神対応”を見せて退団した。
それから8年後の1977年オフ、吉田義男監督辞任後、後任探しに苦慮していた球団は、球団史上最低勝率(.471)を記録したチームを建て直すため、「選手と腹を割って話ができる監督」として、再び後藤監督を起用する。
「明るく楽しい野球」をスローガンに掲げた“後藤阪神”だったが、2年連続リーグVのライバル・巨人に水をあけられ、凋落しつつあるチームを再生することはできなかった。翌78年は投打ともに不振で開幕から1勝6敗と出遅れ、前年の勝率を大きく下回る.339で球団史上初の最下位に転落。10月8日のシーズン最終戦で大洋に3対1で勝利すると、すでに覚悟を決めていた後藤監督は「最後に勝って良かった。同じ辞めるにしても最後だけは勝って……。もう二度とユニホームを着ることもないから…」の言葉を残して寂しくチームを去った。
来季5年ぶりに楽天の指揮をとる三木肇監督が“二の轍”を踏まないよう案じられるところだが……。
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