球史に残る「ダメ監督」!? 短期間で辞任や解任に追い込まれた“悲運の将”列伝

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 セパ交流戦初Vを実現し、一時は3位に浮上するなど、そこそこの成績を残した楽天・今江敏晃監督がたった1年で解任されたのは、ご存じのとおり。球団創設20年で6人の指揮官が1年でクビを切られるという球団側の見切りの早さが改めて浮き彫りになったが、過去には楽天以外のチームでも、わずかな期間で辞任や解任に追い込まれた監督が少なからず存在する――。【久保田龍雄/ライター】

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ファンから「それでもプロか!」の罵声が飛んだ

 1年どころか、6月に早々と辞任に追い込まれたのが、1984年の日本ハム・植村義信監督である。

 前年オフ、8年間チームを率いた大沢啓二監督がV逸の責任を取って辞任したあと、後継監督の人選は困難を極めた。当初は長嶋茂雄氏にラブコールを送るが、“四浪宣言”で断念。その後も複数の候補者が浮上しては消え、最終的に大沢前監督の推薦で植村投手コーチの内部昇格が決まる。「私は(監督の)器ではない」と再三固辞する植村コーチを、大沢前監督が口説きに口説き、承知させたといわれる。

 それでも、引き受けたからには結果を求められるのが監督という仕事。就任会見で「大沢監督が8年かけて築いたチームを一層強くして、広岡(達朗)さんの西武に対抗していきたい」と誓った新監督は、翌84年、年明けの自主トレからキャンプまで40日間無休で選手たちを鍛えに鍛え、「(V奪回に)手抜かりなし。(評論家はBクラスを予想)評判は悪くとも、10月末を見てもらいたい」とV宣言した。

 だが、猛練習の代償は大きかった。開幕後も選手たちは疲れが抜けず、投打とも精彩を欠いたまま、5月10日に最下位転落。同29日の阪急戦から3試合連続二桁失点を記録したあと、6月3日の南海戦も4回まで9得点しながら、7点リードを守れず、10対10の引き分けに。スタンドのファンから「それでもプロか!」の罵声も飛んだ。

 そして6月27日、開幕から3引き分けを挟んで8連敗中の近鉄戦で、自らの進退を賭けて勝利を目指した植村監督だったが、3対3で引き分けると、「成績の悪いのはすべて私の責任。私が身を引かないとチームが駄目になると思った」と辞意を表明。開幕から67試合で早過ぎる降板となった。

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