原点は大正天皇だった「皇室とクリスマス」の知られざる関係 雅子皇后が両親に綴った“クリスマス・カード”秘話

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昭和天皇の叱責は嘘

 ところでクリスマスは皇室にどう定着していったのだろうか。そもそも天皇ファミリーのクリスマス事情をひも解くと、昭和天皇の生涯を宮内庁書陵部がまとめた唯一の公式記録集『昭和天皇実録』の記述に目がいく。

 東京書籍から出版されている実録のページをめくると、昭和天皇(迪宮さま)が6歳だった1907(明治40)年12月18日の日付で「皇太子(大正天皇)・同妃よりクリスマスの靴下に入った玩具を賜わる」と記されており、皇室でもこの頃すでに、クリスマス・プレゼントを贈る西洋文化を取り入れ始めていた事実が分かる。

 織田信長が生きた戦国時代に、スペイン人宣教師のフランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられたキリスト教は、江戸時代の鎖国を経て明治時代に再び流入。一般大衆に自由主義が広まった大正デモクラシーを追い風に国内で定着していった。キリスト教の主要なイベントとしてイエス・キリストの誕生日を祝うクリスマスも同時に定着し、欧米文化を好んだ大正天皇が天皇家でもファミリーイベントに取り入れたというのが通説だ。

 さらに偶然にも、1926(大正15)年12月25日に大正天皇が崩御したため、クリスマス当日が「大正天皇祭」という国民の祝日になったことから、サンタクロースや賛美歌、クリスマス・ツリーなどクリスマスの風習がさらに普及するきっかけとなったのである。

 太平洋戦争後、宮中でも国際親善の席で背広などの洋服といった西洋文化が推奨され、海外から招いた客は、燕尾服にローブデコルテの洋装と洋食(フレンチ)の宮中晩餐会で公式にもてなすようになる。その一方で明治維新後に国が推し進めた国教としての神道の信仰は戦後の皇室周辺に根強く残り、神道とキリスト教の摩擦を生んだ。その摩擦に、さまざまなバッシングにさらされていた美智子上皇后が巻き込まれたという有名な話がある。

 上皇陛下の弟の常陸宮さまは、侍従だった村井長正がキリシタンだったことからキリスト教に理解があるとされる。このため皇室に嫁いでおよそ5年が経った美智子上皇后について当時、常陸宮さまが昭和天皇に「聖書の話がしやすい」とおっしゃったことで昭和天皇が激怒。美智子上皇后を「二度と聖書の話はしないように」と叱りつけ、美智子上皇后が土下座して謝った――という噂話がある。

 美智子上皇后は両親もクリスチャン。美智子上皇后を皇太子妃候補に選定した上皇陛下の教育担当責任者で、元慶應義塾塾長の小泉信三も熱心なクリスチャンだったため、この話は事実であるかのように語り継がれていた。

 この噂話は真っ赤な嘘だと後年になって指摘がなされたが、「皇室でキリスト教はタブー」という見方がしばらく定説となっていた。だが、常陸宮さまは1963(昭和40)年にデンマークや仏、伊などを歴訪した際、バチカン市国に立ち寄ってローマ法王と面会。タブー説は誤りだと証明された。

 雑音もなくなり皇族方も心待ちにするクリスマスは、もうすぐだ。

朝霞保人(あさか・やすひと)
皇室ジャーナリスト。主に紙媒体でロイヤルファミリーの記事などを執筆する。

デイリー新潮編集部

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