【力道山生誕100年】力士時代の逮捕状、昵懇だった元総理大臣…“プロレスの父”だけでない破天荒エピソードの数々

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政治との関係

 その力道山が所有する「リキ・アパート」を、「無料でいいからぜひ使って欲しい」と力道山自身に言わしめた政治家がいた。1982年から首相を務めた中曽根康弘である。

 きっかけは、中曽根が若い時から極めて熱く提唱していた制度にあった。首相を国民投票で選ぶという、「首相公選制度」である。何せこちらを打ち出す1960年代のキャッチフレーズが、「首相と恋人は、私が選ぶ」だから凄い。この制度と、それを唱える中曽根にいたく感銘を受けた力道山は、1962年7月、運動資金をカンパするためのプロレス大会を、中曽根の地元である群馬県でおこなうことを発表している。そのような経緯もあり、中曽根の選挙事務所が高速道路建設のため立ち退きになると、「無料でいいからぜひ使って欲しい」と、リキ・アパートの一室の提供を申し出たのだった(結局、中曽根の方から有料での貸与を申し出、入居)。

 力道山が刺された夜には、いの一番に見舞いに訪れる中曽根の姿が目撃されている。

 力道山がプロレスを日本に根付かせてから5年後、1959年5月24日のことだ。当時の首相である岸信介が遊説先である岐阜駅に着いた。万全な事前告知もおこなわれ、駅前には多くの聴衆が集まっていた。ところが、遊説中、その聴衆が潮が引くかのようにいなくなった。

「力道山が来た!」

 同地での試合のため、力道山が電車のホームに降り立ち、皆、そちらを観に行ってしまったのだ。巷間、力道山について言われていた、「日本で天皇の次に有名な人物」という評価は、決して誇張ではなかった。政界入りすれば、そして首相公選制が実現していれば、その座を射止めていたとしても考え過ぎではないだろう。

 だが、しかし……。

 力道山から、明確に政界入りを希望していると聞いた者はいなかった。当時の日本プロレスのコミッショナーを自民党副総裁の大野伴睦が務めるなど、政治との縁は深くあったにもかかわらずである。後年、弟子であるアントニオ猪木が出馬する際、力道山にも政界入りの意思があったかも知れないとしているが、それは昨年のデイリー新潮(2023年12月15日付)で明かしたように、日本と、母国・北朝鮮の架け橋としての役割を鑑みての推量だったと考えられた。

英雄の抱いた“孤独感”

〈力道山に逮捕状〉。

 前職の力士時代、1950年6月14日の毎日新聞の見出しである。過去に所有するも売却していた自分の漁船「力道山丸」が前年冬に炎上し沈没。こちらが保険金目当ての持ち主の自作自演であったことが発覚し、前の持ち主である力道山にも嫌疑がかかり、6月13日から連行され、取り調べを受けていたことが報じられたのだった。結局、力道山にはまったく咎がなく、翌日には釈放されたが、力道山はこの3ヵ月後、自ら包丁で髷を切り落とし、力士を廃業した。

 力道山が新弟子検査に合格したことを報じる相撲協会発行誌「相撲」(1940年7月号)に、「本名 金信済 出身地 朝鮮」と明示されているように、国籍が日本でないことは角界では周知の事実であり、最初からイジメや差別の対象となっていた。先輩から本名で呼ばれ、しごきを受け、力道山はいつしか、午前1時から独りで稽古するようになった。その時間なら先輩たちが起きておらず、しごきもイジメもないためであった。

 戦争が終わると、力道山は進駐軍の関係者との親交を深めた。アロハシャツを着こみ、オートバイで場所入りし、角界関係者の眉をひそめさせた。先の嫌疑も、すぐ晴れただけに、逆に力道山には大変なショックだったようだ。

 力士廃業は、表向きは病気が理由とされたが、その実、逮捕状騒ぎに見られる周囲の偏見からの苦悩や、国籍の問題から大関以上の昇進が見込めないことの絶望が主因だったとされる。

 プロレスラーとして、日本のトップに立ち、数々の名士とも交流し、そして急死した翌日、新聞に、以下の述懐が明かされた。それは、その立場から言ってもパーティーの主賓となることが多かった力道山本人が語った呟きだった。

〈大勢に囲まれてドンチャン騒ぎの最中にも、ふとたまらなくなることがある。たれも楽しんではいないし、たれも私に心を許していない〉(読売新聞。1963年12月16日・夕刊。原文ママ)

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