【光る君へ】彰子は87歳まで生きた 道長の周囲で長生きした人に見つかる共通点

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権力に媚びずに90歳の長寿をまっとう

 50年以上にわたって日記『小右記』を書き続けた藤原実資も長生きだった。儀式に精通した学識人で、実資が健康で長生きだったために、われわれは今日、藤原道長や紫式部の時代を知ることができると言っても、過言ではない。

 天徳元年(957)の生まれだから、道長よりも9歳年長で、永祚元年(989)には参議に任じられて公卿になったが、そこから先は、道長の父の兼家(段田安則)や、その長男の道隆(井浦新)の一族、そして道長一族らのスピード出世の前に、かなり足止めを食らった感はある。

 しかし、どんなときにも権力に媚びずに自分の信念を貫き、言うべきことを言い続けた実資に対しては、今日も尊敬のまなざしを向ける人が多い。また、出世は早くなかったとはいえ、媚びへつらうこともないまま、長徳2年(996)に中納言、長保3年(1001)に権大納言、寛弘6年(1009)に大納言になり、治安元年(1021)にはついに右大臣に任じられた。長暦元年(1037)には従一位に叙せられている。

 亡くなったのは永承元年(1046)正月で、享年90。驚異的な長寿だが、右大臣になったときは、そこまで25年も務めるとは思わなかったことだろう。

1000年前も長寿は人と交流し頭を使った人

 紫式部(吉高由里子)の娘、賢子(南沙良)も長生きだった。長保元年(999)ごろに生まれた賢子は、長和6年(1017)ごろ、母と同様に彰子のもとに女房として出仕。その後は華麗な男性関係で知られ、道長の次男の頼宗、藤原公任(町田啓太)の長男の定頼、源雅信(倫子の父)の長男、源時中の長男の朝任らと交際したことがわかっている。

 その後、道長の兄、道兼(玉置玲央)の次男の兼隆と結婚し(阪田マサノブ演じた藤原為光の四男、公信という説もある)、一女をもうけた。そして万寿2年(1025)、親仁親王(のちの後冷泉天皇)が生まれた際、乳母を務めたことで、天喜2年(1054)に後冷泉天皇が即位すると、従三位に叙せられた。その間に高階成章と再婚している。

 さすがは紫式部の娘で、歌人としても知られ、承暦2年(1078)には歌合に出席して歌を詠んだ記録がある。その年にはすでに数え80歳にはなっており、記録はないが、その後もしばらく存命だった可能性がある。

 平均寿命が短かった平安時代だが、「光る君へ」でおなじみの人にも、健康長寿をまっとうした人は、意外に多いのである。医学などないに等しいなかで疫病の脅威にさらされ、科学的な健康法とは無縁だったこの時代に、彼らはどうして長生きできたのか。運がよかった、生まれながらに丈夫だった、長寿の遺伝子を受け継いでいた、という事情もあったかもしれない。しかし、彼らには共通点があるようにも思える。

 彰子は天皇家および藤原家の家長としての責任が、生涯ついて回った。緊張を緩める暇はなかっただろう。その点では倫子も、彰子ほどではないが共通するところがあったと思われる。実資はだれかに頼ることなく、いつも自分の頭で考え、判断し続けた。賢子も老年まで歌合に参加し、人と交流し、自分の頭を使い続けた。

 現在も健康長寿の秘訣といわれる、頭を使った張りのある生活をした人たちが、1000年前にも長生きしていたことに気づかされるのである。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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