3年連続最下位には理由があった… 立浪監督が星野監督から「学ぶべきだったポイント」

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監督の右腕となるヘッドコーチは、友達じゃないほうがいい

 立浪監督が星野さんから学んでほしかった点が一つある。それは、「島野育夫さんをヘッドコーチに呼んだこと」だ。

 島野さんは作新学院、社会人の明電舎を経て1963年に中日へ入団。その後1968年に南海に移籍していたのだが、私は1971年に南海に移籍して以降、仲良くさせていただいた。1975年オフの江夏豊とのトレードでは共に阪神に移った。私より4学年上ながら、「シマちゃん」「エモ」と気さくに呼び合える間柄だった。

 島野さんは引退後の4年間は阪神で指導者として過ごし、山内さんが監督だった1986年に中日の一軍外野守備・走塁コーチに就任したが、島野さんがドラゴンズ時代に一緒にプレーをしていた千原陽三郎さんから、

「星野は将来監督になる人材だ。そのときはお前さんが助けてやれ」

 と言われていたそうで、翌年から星野さんが監督に就任すると、同じ役職に加え、1990年からは作戦コーチを兼務した。

 島野さんがとくに優れていたのは記憶力と洞察力。相手チームの選手のクセや欠点を見抜き、そこから分析して作戦を立てる能力が抜群だった。グラウンドを離れれば、競馬が趣味だと言っていたが、あまりにも的中させるあまり、プロの予想屋が島野さんに弟子入りしたがっていたのを丁重に断ったという話を、島野さん本人から聞いたこともあった。

 それだけに、星野さんも、作戦面において島野さんには全幅の信頼を置いていた。ただし、島野さんと星野さんがプライベートで仲が良かったという話は、一度も聞いたことがない。星野さんとは学年でいえば3つ上で、星野さんと同級生である山本浩二さんや田淵幸一さんらのような和気あいあいとした関係ではなかった。

 グラウンドで共に戦い苦労を分かち合う、いわば「戦友」のような関係だった。星野さんの第二次政権時の1996年には、島野さんはヘッドコーチに昇格した。試合中のサインにとどまらず、「オレは投手のことしか知らん。野手のことはシマちゃんに任せる」とまで言われていたというのだから、いかに星野さんから信頼されていたかがわかる。

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