3年連続最下位には理由があった… 立浪監督が星野監督から「学ぶべきだったポイント」

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 チーム成績低迷の責任を取り、今シーズン限りで退任することを発表した中日ドラゴンズ・立浪和義監督。元プロ野球選手で野球解説者の江本孟紀氏は「立浪監督が星野さんから学んでほしかった点が一つある」と話す。成績低迷の1つの要因とも言われる、立浪監督のマネジメント上での“失敗”とは――。

(前後編の後編)

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※この記事は、『ミスタードラゴンズの失敗』(江本孟紀著、扶桑社新書)の内容をもとに、一部を抜粋/編集してお伝えしています。

星野さんがドラゴンズで優勝できた理由

 立浪監督がドラゴンズに入団したのは、星野仙一さんの監督1年目が終わった1987年秋。たしかに星野さんのことを「尊敬している」という話はしていたし、「あの厳しさがあったからこそ、プロで生きていくための土台ができた」ということも話していたが、一方、「星野さんのやり方に固執してしまうと、今の時代には合わない」とも感じていたはずだ。

 星野さんの采配は至ってオーソドックス。大金をはたいて大物選手を獲得し、彼らが存分に力を発揮して活躍した年だけ優勝するというのが、星野さんの戦い方だった。それゆえに、戦略や知恵を絞って勝っていくというスタイルではなかった。

 たとえば1988年にセ・リーグ優勝した際には、前年の87年に落合博満、88年には西武から来た小野和幸が活躍。1999年に11年ぶりのリーグ優勝を果たしたときには、96年に韓国から宣銅烈、97年は李鐘範、99年はサムソン・リー、FAで当時のダイエー(現ソフトバンク)から武田一浩と、韓国勢とFAで実力選手を獲ったことが大きかった。

 それに加えてトレードも積極的に行った。前出の落合や小野がそうだったし、1988年には中尾孝義と巨人の西本聖&加茂川重治との1対2のトレードや、1997年には本塁打王、打点王の2冠を獲ったことのある大豊泰昭と矢野耀大(当時は輝弘)と、阪神の久慈照嘉と関川浩一との2対2のトレードを成立させるなど、あの手この手で戦力を拡充させることに努めた。

 それだけに立浪自身も、星野さんの手法を見るにつけ、「いい選手を獲得して機能させることができれば、チームを上昇気流に乗せることができる」ということは学んだだろうが、星野さんが指揮を執っていた当時のドラゴンズと今のドラゴンズでは、チーム状況がまったく違う。

 親会社もかつてのように大枚をはたいて選手を獲得するようなことはできないし、いざ獲得したものの、失敗したときのリスクを考えたら、おいそれと誰でも彼でも獲るわけにはいかない。この点も立浪監督にとって不運だった。

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