「愛を説明するのが不可能なように、死後生を論理的に説明するのは不可能」 横尾忠則が確信する“あの世”の存在
昔、といっても20年くらい前のことです。一般的に狂言には舞台装置などはないのですが、茂山狂言で初めて衣装や、小道具、舞台美術などを導入した「梅原猛スーパー狂言」で、しばしば梅原さんと顔を合わせていたある日、「横尾君、人間は死んで、あの世に行ったら、何もかもがこの世と全く正反対になるらしいよ」と言うのです。「人も向こうでは逆立ち状態で歩いているらしい」と。
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「先生、そりゃ向こうはこちらとは相対的な世界だと思いますが、人間はこちらと同じ状態で足で地面を踏んで歩きますよ」と僕は妙に生真面目になって返答しました。そしたら梅原先生は、「ちょっと冗談が過ぎたかな」と子供みたいに顔をくしゃくしゃにして、円空の彫刻のような顔で笑っていました。
そんな梅原さんもすでに鬼籍の人となって、「やっぱり横尾君、こちらは君のいうように相対的な世界に違いないが、逆立ちで歩いている人間はどこにもいないよ」とおっしゃる声が聞こえるような気がします。
ここ数年の間、梅原さんを初め、かつて一緒に仕事などを通して行動した親しい友人、知人が随分沢山亡くなりました。というか、進行形で「亡くなっていく」のであります。今年だけでも数多くの著名な友人、知人が旅立ってしまいました。
ついこの間まで一緒に仕事していた人達が今日はいません。今年も残り2ヶ月ほどです。誰も逝かないことを祈るばかりですが、人間は遅いか早いかがあるだけで必ず死ぬことになっています。死の問題は永遠に謎だと言われていますが、本当にそうでしょうか。
大方のというか全てと言ってもいいかと思うほどの知識人が、人間は死んだら無だと主張します。その根拠は死後生が証明されないからという唯物論のためです。僕はその考え方を無視しています。死後生の存在を証明する論理性は僕にはないですが、僕が死後生を肯定するのは僕自身の無意識から発される確信です。
愛を説明するのが不可能なように死後生を論理的に説明するのは不可能です。また説明する必要もありません。私自らの本性というか魂に問いかけ、そこからはね返ってくる強い確信のようなものです。これほど確かな確信はありません。魂の確信を証明したり説明する必要などはありません。それぞれひとりひとりが自らに問うしかないのじゃないでしょうか。
その結果、ないと思う人にとってはないのです。でもないと答える人の根拠の大半は、その人の魂の声ではなく、脳が考えた観念に過ぎないのではないでしょうか。魂と脳は全く別物で脳は肉体に属したものですが、魂は肉体に属しているというより、人間を存在させている宇宙的な力というかエネルギーというか、霊的な存在とクロスするものではないかと思います。
僕はかなり非論理的な話をしていると感じる方が大半だと思いますが、非論理こそ死を考える切掛けになるのではないでしょうか。
死を文学的に考える人は必らず観念の世界にはまり込んで、文学こそ死だと、言葉の観念で満足してしまいます。確かにわれわれ生きている者にとって、死は観念かも知れません。なぜなら死は肉体を所有しないからです。
死は肉体を喪失した状態ですから、観念といえばもっともらしく思えますが、死後生に於いても肉体はあります。ただし観念としての肉体かも知れません。だけど人間の本体は肉体であるというのは肉体人間のいい分で、肉体を離脱した死者は肉体に代って魂という霊的存在を「私」と理解するはずです。
また、死後生の存在を否定する根拠は、死後という場所の存在を、霊的存在と考えないで物質的存在と考えることです。そんな場所はどこにあるのかと、この物質世界の延長のような概念で考えるから、そんな場所を生きた人間は誰も見ていないではないかと、実にくだらない屁理屈で攻めてきます。肉体を知的認識するのはこの物質的三次元のみで、魂の存在は肉体感覚では知的認識の不可能な、次元を異にする四次元以上の世界でしか、認識できません。
死ぬということは無になるというのではなく、肉体を脱ぎ捨てて初めて自由になる非物質的世界、四次元以上の多次元世界と融合することではないでしょうか。そしてその世界は永久に輪廻転生を繰り返します。死→生→死→生へと永遠に様々な生の存在をこの地球内で繰り返します。
しかし、その輪廻と転生の終った魂は不退転の存在になると二度とこの地上には転生しません。時にはもっと高度な地球外惑星に転生する魂もあると思います。もしかしたら梅原さんの空想のように、人間が逆立ち状態で歩く惑星がどこかにあることだって否定はできないかも知れませんね。