「新庄剛志」異例の48歳受験には“思惑”も… プライドを捨てて「トライアウト」にかけた名選手列伝

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トライアウトを契機に復活した選手も

 トライアウトで不合格になりながら、一浪を経て、NPB復帰という異色の経歴を持つのが、巨人時代の2002年に28セーブを挙げ、日本一に貢献した河原純一である。

 西武移籍1年目の2005年に右膝靭帯損傷の重傷を負った河原は、手術を経て、再起を期したが、3年目の07年は登板3試合の0勝2敗、防御率12.19に終わり、戦力外通告を受けた。

 トライアウトでは、打者5人を2三振含む無安打に抑えたものの、膝の状態が懸念材料となり、どの球団も獲得を見合わせた。

「膝さえ治れば、まだできる」と一浪を選んだ河原は、母校・駒澤大学でトレーニングを続け、この間に膝も完治。そして、08年11月に中日のテストに合格し、「また勝負の世界に戻ってこられてうれしい」と闘志を新たにする。

 翌09年は貴重な中継ぎとして、7月10日の広島戦で4年ぶりの勝利投手になるなど、登板44試合で3勝0敗15ホールド、防御率1.85と見事復活を遂げた。

トライアウトの裏にあった新庄の「本当の狙い」

 最後は異色度で群を抜く日本ハム・新庄剛志監督にご登場願おう。

 日米通算1524安打、225本塁打を記録した新庄は、2006年の日本ハムを最後に34歳で現役引退。その後、インドネシアのバリ島に移住し、野球界から離れていたが、19年11月13日、自身のインスタグラムで突然現役復帰を目指して翌年のトライアウトを受験することを発表した。

 すでに47歳。「まさか?」と疑う声も多かったが、本気だった。1年間トレーニングに励んだ新庄は、翌20年12月7日のトライアウトに日本ハム時代のユニホームで参加。試合形式のシート打撃では、3打席無安打のあとの最終打席で、前ヤクルトの日隈ジュリアスから左前にタイムリー。“持っている男”の本領を発揮した。

「6日間でオファーがなかったら野球は終わり」と宣言した新庄だったが、「フルシーズン働けるか?」という点が疑問視され、結局、手を挙げるNPBの球団はなかった。

 だが、このトライアウト挑戦が大きな布石となり、翌21年オフ、日本ハム監督就任が決まる。

 本人も「もちろん選手になりたかったんですけど、最終的な目標は、ここ(監督)だったんですよ。まずは、とりあえず話題性というか、本当に真剣に(トライアウトを)受けに行ったんですよ。でも最終的な目標はトライアウトで皆さんに注目をしてもらい、ファンを集め、この次の年に、そのファンの人たちが流れてくれたら最高だなという気持ちでトライアウトを受けました」と明かしている。

 トライアウトを受けて監督就任という“珍事中の珍事”は、後にも先にも新庄監督だけだろう。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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