「清原正吾」の進路は独立リーグか“就活”か…「プロ入りを蹴って一流企業の役員に登りつめた慶應エース投手」の前例
2年後にドラフト指名される可能性
まだまだ成長が期待できる清原選手を2軍や3軍でゆっくり、じっくり育てれば、打率の高い中距離ヒッターとして1軍で活躍する可能性は充分にある──。
広澤氏の分析のうち「ドラフト指名は育成枠でも厳しい」だけが的中し、伸びしろに夢をかけるプロ球団は現れなかった。改めて広澤氏に清原選手の評価を訊いたが、根本的には全く同じだという。
「もし独立リーグに進んだ場合、僕は清原選手がチームで懸命に2年間、努力すれば、育成枠も含めてドラフトで指名する球団が現れると信じています。彼にはそれだけの資質があります。一部では『外国人選手と競合することも多い一塁手は不利』との指摘も散見されますが、今はメジャーリーグも選手不足ですし、年俸や為替レートなども影響して大物の外国人選手を獲得しづらい状況です。清原選手の長打力が真に開花すれば、ライバルを駆逐し、自分自身の力でレギュラーを勝ち取れるはずです。ポジションは一塁のままで大丈夫だと思います」
ところが、である。これまでにも広澤氏は多くのアマチュア選手から「歯を食いしばって野球を続けるべきか、潔く一般企業に就職するべきか」と相談を受けた経験があるという。そして「東京六大学の野球部員」の場合は他の選手と回答が異なるという。
清原選手の“二つの勲章”
「志村亮さんという慶應大学の名ピッチャーをご記憶の方もいらっしゃるでしょう。私は1962年生まれの62歳で、彼は66年生まれで58歳。神奈川県の桐蔭学園で投手を務め、3年夏は甲子園に出場。慶應の野球部に進み、エースとして活躍しました。9球団がドラフト指名を打診したとも報じられましたが、志村さんは就職を決断しました。三井不動産に入社し、今は三井不動産リアルティの常務です。たまに呑みに行く間柄で、『どうしてプロに行かなかった?』と訊いたことがあります。志村さんは『野球はやりきったと思った』と答え、『自分の判断が正しかった、自分の判断が成功に導いてくれた、と後に振り返れるよう、会社では本当に努力を重ねてきました』と口にしたのが強く印象に残っています」(同・広澤氏)
広澤氏は清原選手について「彼は慶應大学の野球部員として、大きな“二つの勲章”を得たと思っています」と言う。
「一つ目の勲章は、私がドラフト会議前に指摘した、驚異的な成長です。二つ目の勲章は、中学と高校で野球をプレーしなかったにもかかわらず、大学の野球部に飛び込んだこと自体です。何も知らない素人部員と扱われ、球拾いなどのありとあらゆる雑用をこなすのは、本当に大変だったろうし、辛いこともあったはずです。実は現在、少なからぬ大学野球部が中学と高校で野球部に所属したが注目されず、一般入試で入学した大学生の入部を断っているんです。事前にスカウトで獲得した選手は性格も人柄も把握しているので管理しやすいが、素性をよく知らない学生の入部を許して不祥事でも起こされたら困るというのが本音です」
東京六大学の社会的役割
広澤氏は「当たり前ですが、自分の通う大学の野球部に入部しようとして断られるというのは完全に間違っています」と言う。
「日本学生野球憲章に抵触しても不思議ではないと危惧しています。ところが清原選手は中学と高校で野球をプレーしていなかったにもかかわらず野球部の入部を認められ、さらに立派な成績を残した。これは入部の門戸を狭めている大学野球部に再考を促す良い前例になるはずですし、そうなってほしいと願っています。清原選手は慶應大学野球部の4年間で、これだけのことを成し遂げました。たとえ野球を継続しないという道を選択したとしても、充分に胸を張れる実績であるのは言うまでもありません」
ここで改めて東京六大学について説明しておこう。五十音順で紹介すると、慶應、東大、法政、明治、立教、早稲田という6校になる。
「東京六大学は官界や実業界などに優秀な人材を輩出するという社会的役割が期待されています。それだけの教育を受けたことを考えると、私は東京六大学の野球部員が独立リーグに進んでまで野球を続けるのは、少し違うのではないかと思いますし、助言を頼まれるとそう答えてきました。繰り返しになりますが、清原選手が独立リーグに進めば2年後にプロから指名を受けるはずだと私は信じています。しかし彼が獲得した“二つの勲章”を胸に飾り、慶應大学の学生として就職活動を行うのは、それ以上に価値があることではないかとも思うのです。いずれにしても清原選手が後悔のない決断を下せるよう願ってやみません」(同・広澤氏)
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