電流爆破デスマッチに政界進出、女性スキャンダルも…「大仁田厚」ドキュメンタリー映画公開で「涙のカリスマ」波乱万丈の半生を振り返る
「涙のカリスマ」として
「90年8月、全日時代の後輩であるターザン後藤と“ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ”を行い、『東京スポーツ』主催の『プロレス大賞』で年間最高試合賞を受賞しました。大がかりなデスマッチを連発していく中で『涙のカリスマ』、『デスマッチの教祖』などと呼ばれるようになりました。すでに、“プロレス界の父”と呼ばれた力道山は亡くなり、大仁田の師匠である馬場さん、そして新日の猪木さんはプロレス界のカリスマ的存在でした。しかし、馬場さんは社長として裏方のポジションでの活躍が多く、猪木さんはリング上のパフォーマンスでファンを魅了していました。ところが大仁田さんは、過激なデスマッチで傷ついて血まみれになりながら、リング上で涙を流し、『オレを信じろ!』『オマエら、生きろ!』などとファンの感情を揺さぶり続けました。このところ、生きる目標もなく、金に困って闇バイトに手を染める若者が急増しています。しかし、その若者たちがもし、大仁田さんのような存在に出会ってすっかりハマっていれば、『オレもがんばろう!』と思い、まっとうに働いてがんばっていたかもしれません」(同前)
FMW崩壊の真相は
体を張った大仁田のパフォーマンスや、緻密なメディア戦略でFMWはプロレス界で成長したが、大仁田は1995年5月、弟子のハヤブサ戦で2度目の引退。引退試合まで1年間をかけて「引退記念ツアー」と銘打ち、大仁田の試合が見納めになると思った多くのファンを集客した。その後、96年12月に2度目の復帰を果たすも、経営陣や他の選手と対立して98年11月にFMWを追放されてしまったのだ。
「大仁田さんは自身で旗揚げした団体なので、なんとでもなると思っていたようですが、必死にチケットを売って来た経営陣や、体を張ってきた選手たちはガマンの限界でした。若い選手たちも育っていたので、大仁田さんの力を借りる必要はない――そんな思いで追放に至りました。ただ、その読みは甘過ぎたのです。結局、大仁田さんの引退に伴い、リングアナウンサーから社長に就任した荒井昌一さんは、資金繰りに苦慮した挙げ句、02年に2月にFMWが倒産。荒井さんは倒産までの内幕をつづった暴露本を発売して衝撃を与えましたが、同年5月に自ら命を絶ってしまったのです」(夕刊紙記者)
映画「ファイト」の公式サイトでは、《取材班は、FMW崩壊の真相に関して取材を申し込むが拒否される。しかし、あることをきっかけに大仁田は真相を話す》としているだけに、どこまで踏み込んでいるのかが注目される。
追放されフリーとなった大仁田だが、レスラーとしての“商品価値”はかなりのものだったこともあり、新日は集客のために大仁田をリングに上げ、蝶野正洋(61)、長州力(72)らを相手に電流爆破デスマッチを敢行する。さらに新日を中継していたテレビ朝日で当時はアナウンサーだった真鍋由氏(59)を巻き込んだ“大仁田劇場”で視聴者を喜ばせた。
そして、次の“リング”となる、政界へ進出する。01年7月の参院選に自民党から比例で出馬。当時、圧倒的な人気を集めていた小泉純一郎首相(82)肝いりの「小泉チルドレン」の1人として初当選を果たした。また、高卒資格の取得のため、定時制高校に編入して卒業。01年4月、明治大学政治経済学部経済学科(夜学)に社会人特別入試で合格し入学。レスラー、議員、タレント、大学生の“四刀流”で話題になり、後に4年で卒業を果たした。
議員時代も何かと話題になったが、07年7月の参院選に比例区での公認が内定していたにもかかわらず、直前に記者会見を開き突如政界からの引退を表明。その原因は週刊誌に報じられた女性絡みのスキャンダルだったが、関係者にとって女性問題は常に、“悩みの種”だったようだ。
「引退を表明したのは、『週刊ポスト』(小学館)にて、都内の自宅にキャリア官僚を招き、飲食店関係の女性を呼んで“乱痴気パーティー”を開いていたことが報じられたからです。もともと、大仁田さんは全日時代に結婚した前妻との間に2人の子どもがいましたが、結婚当初から自宅に帰らない生活が続き、長年、離婚調停で揉めに揉め、妻への慰謝料1億円を支払うことで、議員時代にようやく離婚が成立しています。それでもモテモテで、『アサヒ芸能』(徳間書店)では“7股疑惑”が報じられたほどでした(16年)。昨年11月には『NEWSポストセブン』で、自身の事務所役員のアラフォー美女との熱愛が報じられました。そろそろ、落ち着いたのでしょうか」(先のスポーツ紙記者)
レスラーとしては、05年3月、午前中に明大の卒業式に出席し、午後のプロレス興行で3度目の引退をしたが、06年4月に3度目の復帰。その後も引退と復帰を繰り返し、18年9月にファイトマネーを貰わない「ボランティアレスラーと」を名乗り7度目の復帰を果たした。政治家としては、10年2月の故郷・長崎の知事選に出馬したものの落選。18年4月には佐賀県神埼市長選挙に無所属で立候補したが、現職に敗れて落選した。
「猪木さんに負けないカリスマ性と行動力で、後を追いかけるように国会議員になりましたが、90年に自らのアラブ地域での知名度や人脈を最大限に利用してイラク在留邦人人質解放を実現させた猪木さんのような大きな“功績”を残すことはできませんでした。政界進出を果たさずに、プロレス界の発展に尽力していれば、もっと、プロレスファンの支持を得ることができたはずです。さすがにもう、プロレス以外でいろいろ仕掛けることはないでしょうけど」(同前)