電流爆破デスマッチに政界進出、女性スキャンダルも…「大仁田厚」ドキュメンタリー映画公開で「涙のカリスマ」波乱万丈の半生を振り返る

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ジュニアヘビー級のエースとして

 では、今作以前の大仁田の“激動の半生”を振り返ってみたい。

「自伝などで明かしていますが、長崎の高校を中退した大仁田さんは、日本一周徒歩旅行を計画。長崎県庁を出発する時に自分で地元マスコミを呼び、その様子が新聞に載ったといいますから、行動力とアピール力は生まれ持ってのものだったようです。ただし、神戸まで辿り着いたものの、火事で家が全焼した知らせが入り、日本一周の計画は断念せざるを得ませんでした」(スポーツ紙の元プロレス担当記者)

 大仁田は心機一転、馬場が「全日」を旗揚げした翌73年、新弟子第1号として入門。馬場の付き人を務め、若手のホープとして期待された。入門から7年後の80年には、“出世コース”と言われた海外遠征に出発。当時、日本でアイドル並みの人気を誇ったテリー・ファンクの斡旋で、アメリカ各地やプエルトリコに遠征した。82年3月、技巧派レスラー、チャボ・ゲレロの持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を奪取し、凱旋帰国する。

「後輩には後に新日本プロレス(以下、新日)でも活躍する越中詩郎さん、いずれもプロレス界の大スターに成長する三沢光晴さん、川田利明さんらがいますが、体重が軽かった大仁田さんは全日ではジュニアヘビー級のエース的な扱いでした。大仁田さんの凱旋帰国時、ライバルの新日では、初代タイガーマスクがジュニアヘビー級で大ブームを起こしていましたが、大仁田さんは全日のジュニアヘビー級を盛り上げたのです」(同)

 しかし、飛躍を遂げようとして いた矢先の83年4月、試合後にリングを降りようとしたところ、左膝蓋骨粉砕骨折の重傷を負う。復帰はしたが思うような活躍ができず、85年1月に引退式を行う。これが1度目の引退となる。

「馬場さんは、元子夫人との間に子どもがいなかったこともあり、大仁田さんを養子にしようとしていたほど。元子さんは引退式後に大仁田さんを抱きしめて涙。馬場さんにとって引退勧告は苦渋の決断だったはずです」(先の元専門誌記者)

 しかし、“プロレスラー・大仁田厚”はここでは死なず。それどころか、1度目の復帰以降、レスラーとして、さらなる飛躍を遂げることになる。

 引退後は、レスラー時代の知名度を生かしてタレントに転身すべく、コメディアン・俳優などで活躍し、2020年に亡くなった小松政夫さんに弟子入り。テレビ東京系のドラマ「花の女子校 聖カトレア学園」(85年)、日本テレビ系の深夜のバラエティー番組「11PM」などに出演していたが、プロレスへの未練が捨てきれなかったのか、タレント業は長続きしなかった。

「全日本女子プロレス」に対抗して86年8月に旗揚げされた「ジャパン女子プロレス」のコーチに就任するも、それだけにとどまらず、レスラーとして復帰を果たすことになる。89年7月に会見を行い、手元にあった全財産5万円の資金で新団体「FMW」を設立。10月に旗揚げ戦を行ったが、その後、大ブームを巻き起こすことになった。

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