「『神田川』という曲を背負い、苦しい思いも」 南こうせつが明かす名曲秘話 「ずっと歌詞の意味を勘違いしていた」

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20代にして東京を離れ……

 貴方はもう忘れたかしら――。昭和を代表する名曲「神田川」の誕生から50年余り。今なお現役の最前線で歌い続けるフォークシンガー・南こうせつが、この半世紀で求めてきたものとは何なのか。音楽活動、田舎暮らし、そして健康の秘訣(ひけつ)まで、75歳を迎えた本人が語り尽くした。【前後編の前編】

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 朝起きて窓を開けると、四季折々の風、海の光がパーッと部屋に入ってきてね。畑の野菜と、すぐそこで取れたばかりの魚で食卓を囲み、夜になったら月を見ながら白ワインを一杯。

 本当の豊かさっていうのは、こういうことなのかなって。こじゃれたバーで飲み歩いたり、贅(ぜい)が尽くされた高級料理店に行ってみたり、そんな東京での日々も充実していてとても楽しかった。だけど僕は、やっぱり自然が好きなんですよね。

〈「神田川」「赤ちょうちん」「夢一夜」――。数々のヒットソングを世に放ち、フォークソング界をけん引してきた南こうせつ。75歳を迎えた今も、年間でこなすコンサートの数は50本を超える。テレビやラジオへの出演もひっきりなしだ。

 そんな“バリバリの現役生活”を支える「田舎暮らし」が、実は半世紀にもわたることをご存知だろうか。昭和の音楽シーンの最前線に身を置きながら、20代にして東京を離れ、これまで地元・大分での暮らしを続けているのだ。

 こうした暮らしが原動力となり、デビュー55周年を迎えた今、彼は自身の半生をどう振り返るのか。〉

環境問題、ベトナム戦争、コロナ禍

 好きな歌を歌い続けていたら、あっという間に55年。早かったなぁと感じると同時に、これまで作った曲たちを見返してみると、その時代性が色濃く表れているなと感じます。たとえば2人目の子どもが生まれたときに作った「お前が大きくなった時」(1978年)には、子どもに対する思いだけでなく、そのときに強く問題視されていた環境問題についても、強い思いが込められていたり、「あの人の手紙」(72年)という曲では、ベトナム戦争が泥沼化していたことを受けて、反戦の思いをストレートに歌っていた。3年前に出した「夜明けの風」は、まさにコロナ禍の世に何か伝えることができればと思って作った曲です。

 時代が変わるごとに、社会に対するメッセージを発信する。これこそがフォークの役割なんじゃないかという思いで、これまでずっとやってきたんです。

安保闘争と切っても切れない「神田川」

 その意味では、僕がデビューした70年は、まさに「70年安保闘争」真っ盛りの時代。これは僕の音楽人生の中で大きな意味を持っています。

 というのも、「神田川」(73年)をはじめ、かぐや姫や南こうせつの名を世に送り出してくれた曲は、作詞を担当した喜多條忠(まこと)さん(元日本作詩家協会会長、47~2021年)自身が安保闘争に明け暮れていたことと、切っても切れない関係にあるんです。

 それこそ、喜多條さんにはじめて作詞してもらった「マキシーのために」(72年)は、学生運動の先頭を走り、機動隊の足を一度つかんだら放さないという女性の悲劇を描いた曲です。「ピラニア」というあだ名で知られていた、喜多條さんの友人の話。

 この歌詞が生み出すリアルな世界観が、僕は素晴らしいと思った。そこで今度はアルバムの中の1曲をと彼にお願いして出来上がったのが、結果的にシングルカットで200万枚を売り上げた「神田川」です。

何とも言えない“男の不安”

「安保闘争」とは関係ない歌だと思うでしょう? 僕も20年くらい、歌詞の意味を勘違いしていました。「貴方はもう忘れたかしら」なんて口ぶりで始まるものだから、最初から最後まで女性目線の複雑な心情を描いた歌だと思っていたんだけど、40歳を過ぎた頃に喜多條さんと飲んでいたら、そうじゃないって言うのよ。

 実際は、「若かったあの頃 何も怖くなかった ただ貴方のやさしさが怖かった」という部分に、喜多條さん自身の心情が色濃く表れているんですね。それこそ学生運動に明け暮れ、何か“大きな目標”のためにがむしゃらに闘っている一方で、家に帰ると愛する人が温かいカレーを作って待ってくれている。そんな心地よさで、目指すものを見失ってしまうような、何とも言えない“男の不安”が、ここに表れているんです。

 喜多條さんは、女性目線で歌っていた僕に「それはそれでいい」と言ってくれていましたけど、たしかにそれが奥行きをもたらしていた面もあるのかな。

「最後の歌詞を書き加えた」と伝えると……

 喜多條さんは良い意味でいい加減なんです。同じく彼に詞を作ってもらった「妹」(75年)も、最後のフレーズは「そして どうしてもだめだったら 帰っておいで 妹よ」と送られてきたんだけど、これだと文字数が足りなかった。仕方ないから僕が「どうしても」の部分を3回繰り返すことで勝手に埋めて、レコーディングしたんですね。するとみんな、「ここが一番グッとくる」と言ってくれて。不思議なものですよね。

 生前、ベッドで横たわる喜多條さんと話をしたとき、「最後の歌詞、足りてなかったから僕が書き加えちゃったんだよ。頼むよ喜多條さん」と伝えると、「分かった分かった」と笑ってくれていました。何十年ぶりの確認になるんだろう。

 やっぱり喜多條さんがいなければ、「神田川」「赤ちょうちん」「妹」をはじめとした名曲たちは生まれなかったわけだし、今の僕も存在しえなかったと思います。

「『神田川』をいかに超えるか」がテーマに

 一方で、「神田川」という曲を背負ってしまったがゆえに、苦しい思いをすることもたくさんありました。

 いつしか「『神田川』をいかに超えるか」ということが自分のテーマになり、30代の頃は、あえて違う曲ばかり歌い、「神田川」でオファーをくれたテレビ出演も断っていた。コンサートのチケットの売れ行きにも影響し始めたりして、苦しい時期でしたね。

 それが40を過ぎた頃でしょうか。NHKの「愉快にオンステージ」というバラエティー番組から、ホスト役をやってほしい、ついては初回で「神田川」を歌ってほしいというオファーがありまして。

 悩んだ末に引き受けて、久しぶりに「神田川」を歌ってみたら、これがまたすごい反響だった。「若い頃を思い出します」「元気が出ます」という葉書がたくさん届いたんですね。そんなにみんなが喜んでくれるなら、これは大事にしないといけないなと。歌わないでいたら、バチが当たるなって思ったんですよ。

55年間をともにした仲間たち

 こうして「神田川」は心から誇れる曲として、僕のもとに帰ってきた。当時葉書をくれた中学生、高校生だってすっかり白髪のおじさん、おばさんになっているけれど、この人たちのために、これからも僕は歌い続けていくのだと思います。

 55年間を振り返ると、仲間たちの存在も欠かせません。

 この9月に有終の美をかざった「サマーピクニック」にも駆け付けてくれたさだまさしをはじめ、吉田拓郎、井上陽水、長渕剛、松山千春、財津和夫、イルカ、それにサザンオールスターズやTHE ALFEE、かぐや姫で共に活動した山田パンダや伊勢正三……。昨年亡くなったチンペイ(谷村新司)のことも忘れられませんね。もう挙げたらキリがないんだけど、みんなそれぞれに「かなわないなぁ」と思わされるところがあるんですよ。

 後編【南こうせつが語った、26歳で「田舎暮らし」を始めた理由と健康の秘訣 「畑は妻と一からつくった宝物」】では、南が26歳という若さで田舎暮らしを選んだ理由や、現在の健康的過ぎる生活について語り尽くしてもらった。

南こうせつ(みなみこうせつ)
大分県出身。1970年にデビュー。フォークグループ「かぐや姫」では、「神田川」「赤ちょうちん」「妹」など、数々のミリオンセールスを記録。解散後もソロとして「夏の少女」「夢一夜」などのヒット作品を発表。大分県での田舎暮らしを続けながら、現在もコンサートを中心に活動している。

週刊新潮 2024年11月7日号掲載

特別読物「デビュー55周年 南こうせつが語る『フォーク』『田舎暮らし』半世紀」より

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