日本シリーズ“ボール判定”に泣いた「ジョー・スタンカ」 野球選手になった驚きの理由(小林信也)
ジョー・スタンカの名は、昭和の野球ファンなら誰もが覚えているだろう。南海ホークスで活躍した196センチの長身投手。伝説的に語られるのは1961年、巨人との日本シリーズ第4戦だ。
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〈円城寺 あれがボールか 秋の空〉 ファンが詠んだ句に象徴される一球の判定がスタンカを翻弄した。
1勝2敗で迎えた第4戦。8回まで巨人・堀本律雄に抑えられ1対2。だが9回表、3番広瀬叔功の2ラン本塁打で逆転した。1点リードの9回裏、3番手・祓川正敏が先頭の渡海昇二に死球を与えるとすぐ鶴岡一人監督はスタンカを投入した。
スタンカはこのシリーズ初戦で完封勝利。第3戦は負け投手となったが、この時、スタンカは長嶋茂雄に危険球まがいの投球をし、球場が騒然となった。波乱の予兆はすでにこの時にあったのかもしれない。
無死一塁から、スタンカは代打・坂崎一彦を三振、1番国松彰を一塁ゴロで二死を奪った。2勝で並ぶまであとアウト一つ。代打・藤尾茂は平凡な一塁フライを打ち上げた。誰もが、南海の勝利を確信した次の瞬間、信じられない出来事が起こった。一塁手・寺田陽介がこのフライを落球したのだ。世に言う、“寺田ポロリ事件”。二死一、二塁となり、試合は続いた。
打席には因縁の長嶋。プロ入り4年目で3年連続首位打者に輝き、本塁打王も獲得した長嶋は三塁ゴロ。が、今度は三塁の小池兼司がファンブルし(記録はヒット)、二死満塁となった。終わったはずの試合が2度までも終わらなかった。そして悲運はさらに続いた。
スタンカと野村克也のバッテリーは四番宮本敏雄を2ストライク1ボールと追い込んだ。決め球は外角低めに沈む球。宮本が見逃すと野村は三振と勝利を確信し腰を浮かせた。と、球審・円城寺満が「ボール」と叫んだ。
「文句なしにストライク。ゲームセットや!」
野村が珍しく激高した。「ど真ん中だろ!」、センターから大沢啓二が怒鳴った。スタンカも真っ赤になって円城寺に詰め寄った。しかし、判定は覆らない。
収まらない怒りは、スタンカの投球に影響を与えた。次の球を宮本にライト前へ運ばれ、2者が還って逆転サヨナラ負けとなった。第5戦でスタンカは意地の完投勝利を挙げたが、結局南海は2勝4敗で巨人に敗れた。
鉄道会社のストライキ
スタンカはオクラホマ州で生まれ、高校時代はバスケットのスター選手だった。大学でバスケットを続ける決意をしていたスタンカの前にドジャースのスカウトが現れた。
「メジャーで野球をやらないか。君には素質がある」
「野球は経験がありません」
「気が変わったら連絡してくれ、これが電話番号だ」
この出会いが自らの人生を開くとは夢にも思わなかった。18歳で結婚し、1年目に長男が生まれた。母子とも加療が必要で医療費がかかった。スタンカは大学を辞め鉄道会社に勤めた。運悪くストライキで無給が続いた。困ったスタンカが思い出したのがスカウトの名刺だった。
50年、ドジャースと契約。10年のマイナー生活を経て59年9月にホワイトソックスでメジャーに昇格。2試合に登板し救援で初勝利を記録した。南海入団はそのオフ。3Aクラスの投手来日は南海では初めてだったからエース杉浦忠と並ぶ活躍を期待した。スタンカは期待通り1年目から17勝。翌61年も15勝し南海をパ・リーグ優勝に導いた。
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