【光る君へ】藤原実資は“媚びない男” 三条天皇からどんなに頼られても距離を置いた
三条天皇に頼られながらも批判する
道長にすれば、三条天皇は耳も聞こえず、目も見えないという病気で、政務に耐えられないのだから、譲位も致し方ないという理屈だろう。だが、三条天皇はたまらない。そうこうするうちに、「実資が、自分(註・実資)が雑事を申す(関白になる)ということを三条天皇に奏上させた」という噂が、道長の耳に入ったという。
三条天皇が実資を関白にするように、本当に画策したのかどうかはわからない。だが、火がないところに煙は立つまい。「関白」はともかくとしても、三条天皇がそれだけ、実資を厚遇していたということだろう。だから道長は、それが事実かどうか三条天皇に詰問し、6月26日にも同様に問い質している。
するとその翌日、三条天皇は実資に道長との応酬について説明したうえで、「万事を(実資に)相談することについて、心中に思っていることに変わりはない」と伝え、実資にもっとも親しみを感じている、などとも話している。ニュートラルな立ち居振る舞いで命脈を保ってきた実資としては、三条天皇に頼られて、うれしい反面、戸惑いもあったのではないだろうか。
しかし、その間も、三条天皇の眼病はよくならなかった。8月には、三条は資平に「近日、道長は頻りに譲位を促してくる」とぼやき、焼けたあと新造なった内裏に戻ってからも目がよくならなければ道長に従うしかない、と弱気を見せるようになった。そして、9月には眼病について秘密の勅命をくだした。その相手は実資だった。
遅咲きながら極めた官位
結論を先に言えば、12月15日、三条天皇は道長に、翌年正月に譲位すると告げた。それより前、10月27日には道長を准摂政に任じ、事実上、政務を委譲している。その前日、三条天皇が翌日にくだす重要な決定を事前に告げ、道長に非があれば修正させる旨も伝えた相手は、やはり実資だった。
だが、実資は三条天皇にそれほど頼られながらも、たとえば、三条が娍子に産ませた13歳の女二宮(禎子内親王)を、道長の嫡男の頼通に降嫁させると言い出したときなど、長患いの末の思い付きだ、という趣旨の非難をしている。
『小右記』での歯に衣着せぬ発言で知られる実資、どこかの野党のようになんでも批判したり、「打倒」や「交代」を旗印にしたりするのと違って、実際、骨があったのである。
だから9歳年下の道長も、批判されながらも常に一目を置いた。こうして実資は、治安元年(1021)には右大臣になった。さらに長暦元年(1037)には従一位となり、臣下としての位階を極めた。そのときはもう80歳近く、永承元年(1046)、90歳で没している。この時代としては異例の長寿であったのは言うまでもない。
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