【光る君へ】藤原実資は“媚びない男” 三条天皇からどんなに頼られても距離を置いた

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紫式部が取り持った実資と彰子の関係

 たとえば、長和元年(1012)から2年(1013)当時、道長が彰子の御所で、公卿や殿上人が食料を持ち寄って宴会をするように誘ったのに対し、彰子が反対して中止になったときのこと。そのころ派手好きの妍子が、同様の宴会を頻繁に開いており、貴族たちに負担を強いていた。彰子はその状況を憂えて、父が同様の宴会を開催することを止めたのだが、実資はこれを受け、彰子を「賢后(賢いキサキ)」と讃えている。

 といって、妍子にはいつも批判的なのではない。長和2年7月6日、妍子が無事出産したにもかかわらず、女児だったために道長はきわめて冷淡だった。これに実資は「天の為すところで、人の力ではどうしようもないのに」と、妍子に同情している。

 彰子自身も実資に厚い信頼を寄せていた。長和元年(1012)5月、彰子が亡夫である一条天皇を弔うための法華八講を行ったのち、実資は彰子から「お追従をしない実資が日々来訪してくれて、大変悦びに思う」との言葉を、女房をとおして伝えられ、大いに感激したという。

 ちなみに、彰子と実資のあいだを取り持っていた「女房」とは紫式部で、実資は紫式部とも良好な関係を築いていた。

三条天皇が実資に求めた意見

 さて、三条天皇と、この天皇に一刻も早く譲位してもらいたい道長のあいだには、第42回で描かれたように「冷戦」が勃発していた。それだけに三条天皇は、道長ほどの権力者にも媚びない実資に頼ることになった。

 すでに道長との激しい軋轢が生じていた三条天皇だったが、長和3年(1014)2月9日に内裏が焼けたのはこたえたようだった。結果、心労のために、片耳は聞こえず、片目は見えない、という状態になった。さらには3月12日、ふたたび宮中で火事が発生して、歴代の天皇が伝えてきた数万もの宝物が焼失してしまった。

 この当時、火事の半分は放火だったとされる。三条天皇を精神的に追い詰めることになった火事にも、政治的背景があったのだろうか。それは知るよしもないが、道長は兄の道綱とともに、この宝物が失われた火事について、三条天皇に直々に「天道が主上(三条天皇)を責め奉ったのだ」と奏上したという。

 天皇に対してあまりの物言いだが、このとき、三条天皇は実資に意見を求めている。そこで実資は、参内して奏上しようとしたのだが、道長がいたために、奏上はかなわなかったそうだ。結果として、三条天皇は実資の援護が得られないまま、道長から譲位するように責め立てられることになった。

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