政局のキーマン「玉木雄一郎」とは何者なのか 地元は“玉木王国”、立憲民主党との“本当の関係”とは

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「玉木王国」の萌芽

 玉木氏は一貫して国会で農水委員会に所属する。祖父は農協組合長、父は獣医師である。地元の香川2区は農村部であり、初当選直後から農業のインフラ整備などを求めてきた。旧民主党政権が「コンクリートから人へ」をキャッチフレーズとする中、地道な予算獲得の取り組みがうかがえる。また、自民党派閥だった旧宏池会を率いた故・大平正芳元首相と地盤、人脈が重なる。自公と協議し、共産党と距離を置く玉木氏の重要な背景の一つである。

 先の衆院選で、香川県での比例代表の国民民主の得票率は25%余りで飛び抜けて高く、1位の自民に4ポイント強の差まで迫った。これは、旧民主党で政権交代の原動力となった小沢一郎氏が、岩手県を「小沢王国」としたのに似る。小沢氏は、政争に敗れても、岩手を牙城に雌伏の時を過ごし、虎視眈々とチャンスを待ったのである。香川は「玉木王国」となる萌芽をはらむ。

 選挙区で強いということは、裏を返せば、永田町での自ら身の置きどころにかかわらず、議員バッジを失う可能性は低いということだ。地盤を固めることによって玉木氏は、自らの主張を貫きやすい立ち位置を得ることが出来た。

合流問題で権力闘争

 国民民主は今年10月の衆院解散時は衆院7議席だった。党の来歴は複雑だが大まかに言うと、もともと国民民主は、旧民進党から多数が参画した旧希望の党を源流としており、その国民民主に在籍していた議員の多くが、後に立憲民主党に移った。玉木氏は、立憲民主に行かなかった残留組で20年に国民民主を再結成した形となった。立憲と国民民主の議席数に大きな差があるのは、このためだ。

 このときは政権奪取に向けた旧民主党勢力の一本化などを大義名分に、立憲と国民の合流協議が断続的に行われた。しかし隔たりは大きく、統合は頓挫。当時の政党支持率は立憲のほうが国民民主を大きく上回っていた。このため立憲が優位だった面は否めない。国民民主所属議員にとっては、小選挙区で敗れた場合の比例復活の可能性などを考慮し、国会議員として生き残るには立憲に行かざるを得ないという事情が語られた。

 協議は枝野幸男氏、玉木氏の両代表間などで行われ、政策や合流方式で譲らない展開となった。立憲が政党支持率などの優位性を背景に強気に出た面があり、国民民主は「吸収合併」を警戒した。立憲は当時、枝野代表、福山哲郎幹事長、安住淳国対委員長らを中心とした陣容で、玉木氏よりかなり上の世代。立憲サイドからは合流後の玉木氏の人事を軽視すると受け取られかねない発言も出ており「世代間闘争」(現職衆院議員)の色彩を帯びた。旧希望の党を前身とした国民民主は、玉木氏を含め中堅・若手が多かったためである。実際、国民民主から立憲に入った議員の中にも「玉木氏は選挙に強いのだから国民民主に残って頑張ってほしい」との声すらあった。国民民主はこの合流協議において、支持率が高く、先輩議員らが幹部を務める立憲民主に足元を見られた形となっていた。若くして一政党の領袖となった玉木氏への妬みもあったのかもしれない。玉木氏は立憲への対抗意識を自ずと培い、権力闘争の矢面に立つ経験を積んだと言える。

 新人議員時代の消費税増税を巡る党内抗争や党分裂劇、そして自ら率いた国民民主を一瞬にして少数政党に転落せしめた立憲民主党との合流交渉―。玉木氏はこれらによって「したたかさ」を身に付けた。それらが政局のキャスティングボートを握る立場へと押し上げたのである。

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