「不仲って本当ですか!」成田空港で集中砲火…それでもミイはなぜ「ピンク・レディーのアメリカ進出」を後悔していないのか

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芸能活動に対するスタンスの違い

 昭和54年5月、アメリカでシングル「Kiss In The Dark」が発売され、翌月にはアルバム「PINK LADY」も発売となった。シングルは全米チャートで37位にランクイン。三大ネットワークの一つであるNBCからも、主役としてバラエティ番組のオファーが来た。彼女たちの挑戦は、順風満帆のように見えた。

 ところが――。

 この頃になって、2人の芸能活動に対するスタンスの違いがはっきり出るようになったのだという。

「私もケイも、始めは『ぽっと出ですぐ消えてしまうのは嫌だ!』と必死に走り続けてきました。ただ、その前年にレコード大賞を獲った後、ケイは『これまで食べる時間も寝る時間もなく走ってきたんだから、これからは落ち着いて仕事をしたい』という考え方になったんです」

 一方のミイは、

「ブームになっているからこそ出来るチャレンジもある、と思っていた。自分たちがすごい才能に恵まれているという自信もありませんでしたから、これだけのチャンスは二度とないだろうと思っていたのです」

「これ以上は耐えられない」

 昭和55年の1月には、ロサンゼルスにマンションを借り、現地での生活がスタート。毎週金曜日のゴールデンタイムには、先に述べたNBCの「PINK LADY SHOW」も始まった。

「わずか1時間の番組なのに、収録に5日もかけるんです。ゲストを呼ぶにしても、本命から芳しい返事がもらえないと、私たちも撮影現場までお邪魔して、直接お願いしました。ある俳優には、『そんなことより、君の家の電話番号を教えてくれよ』なんて言われましたけどね」

 この番組は、2人が水着姿でコントに挑むなど“体当たり”の姿勢が話題を集めて局の評判も上々。当初は6回を予定していた番組の延長の申し出があったという。しかし、

「契約更新のためには、日本の芸能界を離れて活動の基盤もアメリカに移さなければいけなかった。私はそれでも挑戦したかったのですが、ケイはどうしても日本に帰りたいようで『これ以上は耐えられない……』と。そこで、延長を断り帰ることになったのです」

業界を“敵”に回した2人

 そんな2人を待っていたのは、バッシングの嵐である。実は、急な全米進出のため、日本でびっしりと詰まっていたスケジュールはほとんどがキャンセルされていた。業界を“敵”に回した彼女たちに、芸能マスコミは冷たかった。

「4月、成田空港に降りると、いきなり、『解散するんですか!』『不仲って本当ですか!』と集中砲火を浴びたのです。呆気に取られました」

 あれだけヒットしていた曲も“日本不在”が響いたのか、売り上げは落ち続ける。結局、その年の9月、ピンク・レディーは解散を発表した。デビューから5年にも満たない早さであった。

 37年前の決断を振り返ってミイは、「絶頂時から、私もケイも、『ピンク・レディーはブームが生み出したモンスター。落ち着いたら本当にやりたかった音楽をやろう』と思っていました。だから、アメリカ進出を後悔しているわけではありません」と言う。

 解散後、ピンク・レディーは、昭和、平成と時代をまたいで再結成を繰り返すこと数回。今も名曲をファンに届け続けている。

デイリー新潮編集部

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