「美人は1人もいなかった」国民的作曲家・山田耕筰の“ふしだらな女性関係” 長男が明かした「親父が惚れた女の共通点」

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いわゆる家庭の団欒はあまりなかった

「親父も私に跡を継いでほしかったようで、私が中学のときいろいろ音楽の手ほどきをしてくれたことがありました」

 と、耕嗣さんは言う。だが、耕嗣さん本人が外交官になりたかったり、建築デザイナーを志したりしたために、父の意に報いることができなかったのだという。美校を落ちたために建築デザイナーを断念した後は法政予科から入隊。戦後は外国企業を転々として、最後は外資系航空会社の社員で定年を迎えた。

 結局、父親とは無縁な人生を歩んだ耕嗣さんだった。その父親に対しては、

「もちろん、ある時期、親父を憎んだり恨んだりしたこともありましたが、それはもっぱら、いわゆる家庭の団欒といったものがあまりなかったことに対してであって、親父の女性のことに関しては、ただの一度も恨んだことはないんですよ」

 と理解を示す。

親父はとにかく惚れっぽかった

「それは、私だけではなく、私の母もそうでした。私が暁星中学に行っている頃から、輝子はしょっちゅう家に来ていたし、終戦を境にして親父と輝子はずっと一緒に暮らすようになってしまったわけですけど、私の母は輝子のことを悪く言ったり恨みがましいことを言ったことは全くありませんでした」

 耕嗣氏本人も、父の女関係なんか慣れっこだった。

「私が小学校時代は茅ヶ崎に住んでいましたが、その頃、親父は新橋の芸者のパトロンをしていたし、赤坂へ移ってからも、親父の女のところへ使いにやらされたこともありました。いつも好きな女性がいたことも、女房が3人かわったことも、すべてが自然のことでしたね。

 とにかく親父は女に惚れっぽかったのです。しかも、親父が惚れた女に共通する点は、声がよかったということです。親父が好きになった女に美人は1人もおりませんでした。女の声と人柄に惚れたのです」

デイリー新潮編集部

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