自殺未遂で保護入院も「私は病んでいない」 エリート官僚の“妄想うつ”に精神科医はどう向きあったか

国内 社会

  • ブックマーク

治療の後日譚

 その後恵一郎は、1ヶ月でなんとか無事退院し、今は職場に復帰している。入院当初は食事を拒んでいたため、脱水など身体的な問題が生じる可能性があり、栄養面での対処は急務であった。

 水分・栄養分補給の点滴に対しては諦めたように無言で従うのみであった。ただ、抗うつ薬の服用については案の定、「薬は要りません」「ムダなことです」と、頑として拒否した。

 妄想性うつ病は、休息していただけでは改善しないことが多い。自殺のリスクも高いため、のんびり構えているのは危険である。抗うつ薬による治療が、初期においてはどうしても必要だ。軽症のうつ病では、精神療法や認知行動療法など薬を使わない治療が有効だが、強固な妄想を抱える重症例では、そういうわけにはいかない。

 一般に使用されている抗うつ薬のうち、1種類だけ点滴で使えるものがある。恵一郎に、点滴から薬剤を入れることを説明したが、「イヤですね」「勝手にしてください」など拒否はしたものの、投げやりながらも点滴を抜くなどの行動はとらなかった。

 治療が進み5日目くらいから、「大したミスではなかったのかもしれない」「僕1人ぐらいが自殺しても、マスコミ沙汰にはならないですね」と、妄想的な確信が薄れてきた。食事も徐々にとり、看護師とも雑談をするようになった。1週間後には「薬飲んでみます」という申し出があったため、点滴は中止し錠剤に切り換えた。

 後日、恵一郎にこんなことを聞いてみた。

「つらかったときに、医者に相談してみようという気にはならなかったのですか?宮崎さんほどの頭のいい人ならば、うつ病の知識ぐらいはあったと思います。眠れないとか頭が回らないとか、実際にいろいろと困っていたかと思いますが」

 恵一郎は苦笑いしてこう言った。「そのときは、そんなことはまったく考えませんでしたね。今思えば、そうしておけばよかったんでしょうが」

「そんなことはまったく考えていなかった」という言葉は、そのときの恵一郎の「病識欠如」をはっきり言い表している言葉である。

 うつ病でも、このように妄想的で病識のない、「匿病」傾向のある患者は、思考の修正が 利かず、自殺のおそれが高いと言われている。恵一郎の場合は、抗うつ薬の点滴による治療 が奏効し副作用も生じなかったのは幸いだったが、薬剤の効果が乏しい、あるいは副作用 が生じるなど投与が難しくなった場合には、ほかの治療法を検討する必要がある。

 ***

 この記事の前編では、同じく『自分の「異常性」に気づかない人たち』(草思社)より、エリート官僚の恵一郎に起きた“異変”が、ついには「自殺未遂」へと駆り立てるまでの過程について、詳述している。

『自分の「異常性」に気づかない人たち』(西多昌規著、草思社)

書籍を購入する『自分の「異常性」に気づかない人たち』(西多昌規著、草思社)(他の写真を見る

【著者の紹介】
西多昌規(にしだ・まさき)
早稲田大学教授、早稲田大学睡眠研究所所長、精神科医。1970年石川県生まれ、東京医科歯科大学卒業。国立精神・神経医療研究センター病院、ハーバード大学客員研究員、自治医科大学講師、スタンフォード大学客員講師などを経て、早稲田大学スポーツ科学学術院・教授。日本精神神経学会精神科専門医、日本睡眠学会総合専門医、日本スポーツ協会公認スポーツドクターなど。専門は睡眠医学、精神医学、身体運動とメンタルヘルス、アスリートのメンタルケア。著書に『眠っている間に体の中で何が起こっているのか』(草思社)、『休む技術』(大和書房)ほか多数。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 3 次へ

[3/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。