自殺未遂で保護入院も「私は病んでいない」 エリート官僚の“妄想うつ”に精神科医はどう向きあったか

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うつ病「三大妄想」と蝕まれた病識

 恵一郎の診断は、うつ病だった。もっと詳しく診断するならば、「精神病(妄想)をともなううつ病」だが、「妄想性うつ病」と呼ぶほうがわかりやすいだろう。

 うつ病というと、「落ち込んでいる」「やる気が出ない」といった、マイルドな症状をイメージする人がほとんどだろう。これら抑うつ気分や意欲低下は、わたしも含めて、健康な人にも存在する自然な精神の動きである。

 しかし、うつ病の中に強固な妄想をともなうタイプもある。妄想性うつ病の患者は、妄想に凝り固まっているため、治療が必要だという医師や家族の説得にもなかなか応じてくれず、結果的に入院を必要とすることも多い。

 スタンフォード大学の研究グループの調査によれば、ヨーロッパ5ヶ国の1万8980人を対象とした有病率調査で、妄想性うつ病は0.4%であり、うつ病患者の18.5%に妄想が見られたという。つまり、うつ病の2割弱は、妄想が見られるというわけだ。

 妄想性うつ病は、不安、不機嫌、焦燥をともないやすく、自殺の危険性が高いことでも知られている。「罪業妄想」「貧困妄想」「心気妄想」の3種類からなる「三大妄想」は、うつ病患者に特徴的な妄想として、古くから知られている。

「罪業妄想」は、まさに恵一郎が取りつかれていた妄想である。「自分はとりかえしのつかない失敗を犯した」と、自分が道徳的・倫理的に重い罪を背負っており、それによって罰せられると確信している。うつ病の持つ罪業妄想は、過去のとるに足らない、ささいな過失であることが少なくない。

 自分の過失や無能力のために、自分や家族が困窮してしまうと確信する「貧困妄想」も、現場でもしばしば目にする。「破産してしまい医療費が払えない」などと言い張り、治療を拒むのは、典型的なパターンである。

「心気妄想」とは、自分がなんらかの病気にかかっていると確信する妄想であり、「わたしは絶対に肺ガンだ」と言い張り、何度検査しても納得せずに医師を困らせている人も中にはいる。自分の健康と生についての、事実としては根拠のない過剰なこだわりが、強固な確信という妄想レベルにまで達している状態である。

健康を偽装する「匿病」の心理

 同僚や友人どころか、妻でさえ恵一郎の不調に気づかなかったのは、理由があるのだろうか。謎を解く鍵は、妄想性うつ病患者が持ちがちな否定的な自己価値観にある。

 一般的なうつ病患者は、「なんとなく気分が沈む」「やる気が出ない」と感じるとともに、原因のはっきりしない体の重さや倦怠感や食欲低下、不眠に困るものである。自分でも「これはもしかしてうつなのかな」と認識しやすいので、他人や医者に相談できる場合も多い。

 しかし、恵一郎も悩んだ恥辱や罪悪感、自責感、後悔の念など、「否定的な自己価値観」は、異常なものとは認識しづらい。いつのまにか自己否定感に吞み込まれてしまい、病的な変化として気がつきにくいのだ。

 罪業妄想では、自分の無価値ぶりを高らかにアピールする。貧困妄想では、借金や破産をこれ見よがしに苦悩する。心気妄想では、医者が辟易するくらいに病気のことを心配する。

 自分の異常性や疾患性を隠蔽する心理=「匿病」も関係している。これは病気を隠して健康を偽装することで、恵一郎の異変がまわりに気づかれなかったのも、「匿病」がうまくいっていたためである。

 自分の悩み(妄想)をひた隠しにしていたのは、相談しにくいテーマであったとともに、「病気に思われたくない」という心理が働いていたと考えられる。

 それは悪意からではなく、「自分の無能を知られると、左遷されてしまう」「病気だとわかれば、妻が離れていく」という、罪や罰を恐れる気持ちからだったのかもしれない。

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