出張だと妻に偽り、川に身を投げた「キャリア官僚」 なぜ“ありえない妄想”に取りつかれてしまったのか
レンタカーを借りて向かった先は…
恵一郎は、週末にレンタカーを予約した。妻には、「地方説明会で出張する」とうそをつき、一日家を空けることを伝えた。地方出張はたまにあるので妻は「普段は1ヶ月くらい前から伝えてくれるのに今回は急だな」と思う程度であった。
恵一郎は昼前に自宅を出たあと、車で2時間ほどの某県へと向かった。
この県は恵一郎が4年前に出向し土地勘があった。県の中心部には、大河がゆったりと流れている。出向していた頃には、まだ幼かった子どもを連れてたまに遊びに来ていた、懐かしく思い出深い川だ。
ゆったりとした流れに見えるが注意深く見ると、ところどころに急な水流が渦を巻いているのがわかる。今日は穏やかな顔を見せているが、雨が降った日には水量が増し、“暴れ川”の異名をとるだけの川である。
季節は晩秋で天気は快晴なものの、人気はほとんどなかった。橋のたもとの暗い河原に車を止めて、靴をそろえて車内に置き、準備していた遺書を上に置いた。
気がつくと、恵一郎は冷たい水の中でおぼれかけ、釣り人に必死に助けを求めていた。水をかなり飲み込んでおり、足にかすり傷を負っていたが、意識は保たれていた。
釣り人が警察に通報し、3時間ほどで慌てふためいた妻が現れた。警察からは勤務先への連絡と医者にかかることをすすめられ帰宅許可がおりた。帰りのレンタカーは妻が運転したが、妻と何を話したかの記憶は、恵一郎にはほとんどない。
ただただ、「このことが職場に知れたらどうしよう」「そうなったら、俺のキャリアはおしまいだ」という恐怖しかなかった。
不安を抑えようとしているうちに、どんどん呼吸が荒くなってきた。息を止めようにも、胸郭が勝手に動いてしまう。このまま肋骨がバラバラになって、死んでしまうんじゃないかという恐怖が襲ってきた。水でも飲めば治るかと思ったが、手がしびれてペットボトルの水も飲むことができない。目を見開いて泣きそうな顔をしている妻の顔が見えた。頼るのは、彼女しかいない。
精一杯声を振り絞って、「なんとかしてくれ!」と叫んだ。「病院に行こう、それしかないよ、恵ちゃん」ちょうど、長女が小児科でかかっている総合病院まで、あと20分ぐらいで着く。もう、そこに頼るしかない。
自殺未遂者はまず、精神疾患を疑われる
午前10時ちょっと前に、わたしの院内用PHSが鳴り響いた。
「先生に診ていただきたい患者さんがいるんですが……」
若い研修医の緊張した声で、患者の簡単な説明が行われた。昨夜パニック発作で救急搬送されたが、話を聞くと同じ日に入水自殺を試みたらしい。うつ病の可能性はあるか、精神科としての検査や治療が必要か、評価してほしいという依頼であった。
救急で自殺未遂者の精神疾患が疑われ、急な診察や対処を求められることは大きな総合病院ではよくあることだ。
恵一郎は、透明な点滴を受けながら、4人部屋の奥のベッドに横になっていた。ベッド脇には、妻が硬い表情で目を閉じてうつむいていた。
今現在の痛いところやだるいところ、食事や睡眠について簡単に尋ねたところ、恵一郎は落ち着いて答えることができた。
次にはやはり、自殺未遂という肝心の話題に触れざるをえない。
「場所を変えて、先生とだけ話したいのですが」
別室で、わたしと恵一郎だけが話すこととなった。たしかに、隣の患者には、聞かれたくないのももっともなことだろう。しかしそれよりも、わたしに伝えたい「何か」があるという意志が感じ取れた。
[2/3ページ]