出張だと妻に偽り、川に身を投げた「キャリア官僚」 なぜ“ありえない妄想”に取りつかれてしまったのか
30代半ばのキャリア官僚として多忙を極める宮崎恵一郎(仮名)は、ささいなことをきっかけに心を病み、果てに入水自殺を試みてしまう。救急搬送された彼を担当することになった精神科医で医学博士の西多昌規氏は、診察によって“ありえない妄想”に取りつかれたことを知る――。
(前後編の前編)
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※この記事は、『自分の「異常性」に気づかない人たち』(西多昌規著、草思社)の内容をもとに、一部を抜粋/編集してお伝えしています。
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キャリア官僚が犯した“深刻な”凡ミス
「今晩もまた答弁書類の準備か……」
某省キャリア官僚の恵一郎も、今年で入省12年目になる。入省したときには、「国を変える仕事がしたい」「先々は国会議員にも」という熱い希望に燃えていた。
しかし、意気盛んだった彼も、人員削減や国政の混乱などで、最近はこれまで経験したことのない疲労を感じるときが多い。国会シーズンには質問への答弁書作りで多忙を極めるが、以前ほどのモチベーションは湧いてこないことを感じている。
今夜も帰りは終電を逃し、タクシーになってしまった。閑静な住宅地にある官舎に帰り部屋に入ると、作り置きの料理がテーブルの上に置いてある。小学生の長女はすでに寝ているが、妻も最近は恵一郎の帰りを待たずに就寝することが多くなった。仕方がないと思う反面、苦労している自分の帰りを待ってくれない不満、怒りはないわけではない。
とはいえ、イライラしている余裕はない。明日の朝、といっても日付は変わってもう今日なのだが、6時には起きて出かけなければならない。睡眠不足には強いつもりだ。
多忙な生活が続く中で、思わぬ事件が発生した。恵一郎が担当していた事業の中間報告書をまとめる時期になり、表計算ソフトでの経理作業が増えることとなった。そこで、今までミスを犯したことのない恵一郎が、単純なコピー作業を間違えてしまったのである。
課長から「この数字、ちょっと合わないんじゃないか?」と指摘されたところで、よくよく見ると桁がまったく合っていない数字が並んでいる。
「また作ってくれればいいよ」課長は単なる凡ミス扱いで、機嫌を悪くすることもなく大らかな対応だった。公的に配布する前のチェック段階だったので、業務上も致命的ではまったくない。
しかし、このようなミスは、高校や学習塾時代から犯したことがほとんどない。まして、入省してからは、学生時代とは比べものにならないほどの緊張感を持って仕事をしている自負があった。ミスの事実よりも、ミスをした自分に対する自信や信頼が大きく揺らいだことのほうが、恵一郎にとっては大きな衝撃だった。
以前は次々と押し寄せる仕事の負荷を克服してきたが、この一件があってからは「もしかして、ミスをするかも」という不安がよぎるようになった。
現実とは区別のつかないような悪夢
仕事量や疲労は増える一方であった。恵一郎は徐々に、部署の業務計画がうまく進まないことを、自分の責任だと思い詰めるようになっていった。
「あのミスが引き金になって、計画に支障が生じたのではないだろうか」
「課長や同僚は自分に面と向かってミスを指摘せずに隠していて、あとで人事に反映させるんじゃないか」
繰り返すが、恵一郎のミスは、誰でもするようなささいなレベルで、組織にはまったく影響を与えていない。しかし、恵一郎は、ますます深刻に考えるようになった。
実はこの2ヶ月ほど、恵一郎はまともに眠れていない夜が続いていた。ベッドで横になっても仕事で自分が数字を大きく間違えて、政治家や国民から罵倒される姿が夢に浮かぶ。「お前なんか死ね!」と上司に面罵される場面で、飛び起きる。
汗をびっしょりかいた身体全身で、「またか……」と溜息をつく。現実とは区別のつかないような悪夢で、休息すべき夜にかえって疲労してしまう。仕事も精彩を欠いており、通勤電車での読書もほとんどできなくなっていた。
まともな休日があれば、家族も異変に気づきそうである。しかし、休日出勤が続いていたことと、恵一郎の妻が週末も子どもの親の集まりなどで忙しかったことから、家族でゆっくりする時間はほとんどなくなっていた。
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