プロ野球「戦力外」からの銀幕デビュー 俳優・八名信夫さん(89)が「悪役で生きていこう」と思った運命の瞬間

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 大きな希望を抱いて入部した明治大学野球部を逃げ出し、東映フライヤーズ(現日本ハム)の投手に――ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、異業種の世界に飛び込み、新たな人生をスタートさせた元プロ野球選手の現在の姿を描く連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第16回は八名信夫さん(89)です。第2回では、けがが原因で戦力外になり、俳優として第2の人人生を歩んだ八名さんが、どうして悪役に目覚めたのか。興味深いエピソードが満載です。(全2回の第2回)

意に染まぬ思いのまま俳優に転身

 プロ3年目となる1958(昭和33)年、東映フライヤーズの八名信夫は投手生命を左右する大ケガに見舞われた。腰骨を骨折して以来、本来のピッチングができなくなった。この年のオフ、球団代表・石原春夫から命じられたのは、意外にも「俳優転向」の打診だった。

「まったく想像していなかったから、本当に驚いたね。オレとしては、本社で電話番でもするつもりだったのに、“八名君、君は撮影所契約だよ”と言われたんだから。それで稽古場に連れていかれて、黒タイツをはいて、鏡の前で踊れって言うんだよ。“そんなことできるか、オレはプロ野球選手だったんだぞ!”って断ったよ」

 背が高く端正な顔立ちの八名に俳優転向を進めたのは東映の名物社長である大川博だった。このとき大川は「王貞治や長嶋茂雄に打たれるぐらいなら、高倉健に撃たれろ」と語ったという噂が流布している。しかし、この時点では王はプロ入り直前であり、長嶋はまだ駆け出しの頃だった。八名に真偽を確かめる。

「そんなのはウソ、まったくのでたらめだよ。マスコミが面白おかしく書いただけ」

 不承不承、役者を始めることになった。撮影現場に行き、通行人役として多くの映画に出演した。なかなかセリフを与えられない八名にとって、転機となったのは「野球」だった。当時、東映を筆頭に東宝、松竹、大映、日活、そして新東宝の主要6社はそれぞれ草野球チームを持ち、年に一度、俳優たちによる「野球まつり」が開かれていた。大映との試合前日、大川社長から直々に連絡をもらった。

「明日の大映との試合、絶対、勝てよ」

 大言壮語を吐き、「永田ラッパ」と称された永田雅一率いる大映は、東映と同様、映画製作を軸にプロ野球チームも所有していた。大川にとって、「打倒大映、打倒永田」は宿願でもあった。そして、翌日の試合で八名は好投し、見事に大映相手に大勝した。

「それからしばらくして、東映の東京撮影所がテレビ制作を始めることになったとき、大型時代劇『紅孔雀』の主役に抜擢されたんだ。すっかり忘れていたけど、それは大川社長からの《野球のご褒美》だったんだ」

 番組は好評を博した。主役として懸命に演技をした。セリフも多い、拘束時間も長い。それでも出演料は1話につき3000円足らずだった。八名の胸の内には、小さな不満が少しずつ積み重なっていた。

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