東映「名物社長」の命令で投手から“俳優”に転身 俳優・八名信夫さん(89)が明かすプロ野球選手時代の秘話

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 ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、異業種の世界に飛び込み、新たな人生をスタートさせた元プロ野球選手の現在の姿を描く連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第16回は八名信夫さん(89)です。俳優として、誰もが知る存在ですが、東映フライヤーズ(現日本ハム)で3年間、投手として活躍しました。第1回では、混乱の戦後から野球に目覚め、大学からプロ入りするまでを伺います。(全2回の第1回)

燃え盛る炎の中で見た、あの日の光景

 あの日のことは、今でも鮮明に脳裏に焼きついている。1945(昭和20)年6月29日の明け方のことだった。B29による焼夷弾によって、街は炎に包まれた。岡山県岡山市に暮らしていた9歳の日の思い出を、八名信夫が振り返る。

「あの日、“ドカン!”という音とともに家がグラグラって大きく揺れたんだね。それで慌てて家を飛び出してお袋と姉と一緒に逃げたんだ。街はまたたく間に火の海に包まれ、苦しくてうめいている人や、すでに亡くなっている人でいっぱいだった。近所の西川には水面が見えないほどの死体が浮かんでいた。それはもう、壮絶な光景だった……」

 すでに89歳となった八名は、80年もの年月が経過した今でも、その日の光景をハッキリと記憶している。やがて日本は敗れ、戦後の窮乏期において、彼が夢中になったもの、それが野球だった。

「いや、決して野球に魅せられたわけじゃないんだね。終戦直後は、とにかく貧しくて食べるものがなかった。そこでオレたちは、焼け跡から水道管の蛇口を見つけては、それを売ってイモなどの食べ物にかえていた。蛇口は真鍮でできているから高く売れたんだね」

 常に腹を空かせていた子どもたちの窮状を見て、戦地から復員してきたばかりの教員は、八名をはじめとする子どもたちにこんな提案をしたという。

「腹が減ったからといって、よその家の水道管を盗むのはやめなさい。そんなに腹が減っているのなら野球をやりなさい。野球部を作るから、入部した者には毎日一つずつコッペパンを食べさせてあげよう」

 この言葉が八名と野球との出会いとなった。できたばかりの野球部に入部すると、その後、桑田中学、岡山東高校(現・岡山東商業高校)と野球漬けの日々を送った。高校の2学年上には、後に明治大学から大洋ホエールズで活躍する秋山登、土井淳もいた。

「高校3年生のとき、修学旅行で東京に行ったんだ。そのとき、野球部の連中だけは、“観光なんてしなくていいから、神宮球場で東京六大学を見学しろ”ということになって、初めて神宮に行ったんだね。そのとき、明治と早稲田の試合を見たんだけど、スタンドに響き渡る明治の応援歌を聞いて鳥肌が立ったんだ。それで、“よし、明治に入ろう”と決めたんだ」

 高校3年時には広島東洋カープから契約金50万円でプロ入りの誘いを受けていた。それでも八名は「憧れの明治のユニフォームを着て、神宮でプレーしたい」との思いで、明治大学野球部への入部を決めたのである。

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